『時をかける少女』(大林宣彦、1983年)は、勿論、筒井康隆のジュヴナイル小説を基にした映画だが、中学生の時分にテレビで観た際、解説の故・荻昌弘が尾道のことと大林宣彦のことしか喋っていなかったものだから、筒井ファンだった私はやけに腹を立てたのだった。何しろ、その頃新潮社から出たばかりの筒井康隆全集を、兄姉に頼んで高校の図書館から借りてきてもらい、1巻から順に読むような馬鹿な奴だったから仕方がない。
それはそれとして、最近放送されたこの映画、とても心に沁みるのだ。落ち着いた色調のなかにも鮮やかな色が混じるフィルムの味(アグファ的とおもってしまった)、教室のなかでの意図的なハレーション、原田知世や尾美としのりの素人くさい演技。原田知世は特に良くて、呆然と観ていると、ツマに散々罵られてしまった(とり・みきが『愛のさかあがり』で手放しで賛美したのもわかる)。
後半、原田知世が時間を遡るとき、コマ送りを粗くする一連のシーンがある。子ども2人が階段に腰掛けて笑うところなど、大林宣彦が若い頃に撮った8ミリ作品『だんだんこ』(1960年)の叙情性を思い出させるものがある。『だんだんこ』では、階段をゴムまりが跳躍するのだが、そこでカメラもゴムまりに乗って撮ったような息遣いは、『時をかける少女』の撮影中にも、大林宣彦のなかで時間の跳躍と被さって意識されていたに違いない。(もっとも、根拠はない。)
「17歳の時に8ミリカメラを手に入れると、自分の周りのあらゆるものを撮り始め、高校を卒業して東京の成城大学に入学する頃には、8ミリによる作品制作を開始することになる。その映画は、美学的、理論的な方法論ではなく、長い間の映画との戯れによって肉体化された独特のリズムとテクニック、そしてロマンチックでユーモラスな語り口が特徴的であり、(略)」
平沢剛編『アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブス』(河出書房新社、2001年)
『時をかける少女』(1983年)
『だんだんこ』(1960年)
それよりも、あっ気がつかなかったとおもったこと。ラベンダーが栽培されている温室のシーンが、多重人格の女を原田知世が演じる、実相寺昭雄『姑獲鳥の夏』(2005年)における温室のシーンとぴたりと重なるのだ。もっとも、実相寺作では、催淫性のダチュラという植物が栽培されているのだという微妙な設定ではあったが、大林宣彦も原田知世をひたすら清純に描いたかというとそうでもないから(理科室で再度倒れるときに白目を剥いたりする)、20年以上を隔てた2つのシーンの距離はそんなに遠くない。
このあたり、故・実相寺昭雄が意識していたのかどうか、『姑獲鳥の夏 Perfect Book』(別冊宝島、2005年)のなかには何も見つけることができなかった。
最近のアニメ『時をかける少女』(細田守、2006年)では、話が随分と様変わりしているが、技術的に素人目にもすぐれていることがわかり、爽やかで良い作品である。去年訪れたオーストラリアのパースでも、日本アニメの特集上映をしていて、その1本に選ばれていた。タイトルは『The Girl Who Leapt Through Time』となっていた。