この週末に、東京国立近代美術館で開催している写真展、高梨豊『光のフィールドノート』を観た。
もともと、持ってまわったような言葉による装飾があまり好きになれなかった写真家である。「年齢=焦点距離論」がよく知られている。28歳なら28ミリの画角であり、存在論。50歳なら50ミリで人生論。望遠なら被写体の因果関係を撮っているから因果論。といって、いったいそれが何だというのだろう。
それはそうではなく、はじめて多くの作品のシリーズを通して観て、方法論はこの作家が自らを見る眼であり、身体を縛る制約であるのだと思い至った。
改めて、ごちゃごちゃと小理屈を並べ立てているようにしか思えなかった、『われらの獲物は一滴の光』(高梨豊、蒼洋社、1987年)をぱらぱらとめくってみると、何か切り捨てていたものを再発見できそうに思えた。
「たしかに「写真」は、撮りながら、また、どんどんはき出すという反復行為が、自己変革を行って行くものです。はき出すことによって、次に撮る、自分の視点が変化していく、ということが、写真行為の健康な姿です。約一年、排泄行為をおこたったボクは、たしかな裏切りを、受ける資格を持ったといえましょう。」
多彩な試みを続けてきた写真家であるから、見所はそれなりに多い。自分としては、高梨豊がライカのボディを買う前に入手したという、スーパーアンギュロン21mmF3.4によって撮影されたとおぼしき、「船橋市 船橋ヘルスセンター」(『東京人』、1965年)のプリントを観ることができたのが収穫だった。あれは三番瀬だろうか、真ん中の下に男が海を向いて座っている。良い写真である。