Sightsong

自縄自縛日記

坂口安吾アンソロジー『嫌戦』を読む

2009-02-16 21:20:51 | 思想・文学

インターネット新聞JanJanに、坂口安吾アンソロジー『嫌戦』(凱風社、2009年)の感想を寄稿した。

>> 『嫌戦』の感想

 「嫌戦」というタイトルはアンソロジーについてのものであって、坂口安吾自身が付けたものではない。従って、「戦争は人間道徳の観点から間違っている」といった意味は、少なくとも、安吾が言わんとしていることではなさそうだ。

 むしろ、「ぐうたらで、だらしがない」人間が、イデオロギー的に反戦を唱えることと、愛国を唱えることとは、同列のことだと考えられているようだ。所詮、ひとりひとりの人間などその程度の存在に過ぎないからである。

 それでは、(照れもあるかもしれないが)そこまで達観を決め込んだ安吾の眼に、戦後の再軍備はどのように映ったか。

「ピストルやダンビラを枕もとに並べ、用心棒や猛犬を飼って国防を厳にする必要があるのは金持のことである。今の日本が金持と同じように持つことができるものは、そして失う心配があるものは、自由とイノチぐらいのものじゃないか。ところが、戦争ぐらいその自由もイノチも奪うものはありゃしない」

 「日本の再軍備は国際情勢や関係からの避けがたいものだと信じて説をなす人は、こういう奇怪な実力をもった誰かの存在を確信しているのだろうか。そんな考えの人も不気味だね」(『もう軍備はいらない』より)

 カネや権力以外のさまざまな大事なものを、至極真っ当に天秤にかけた、実利的な考えと言うべきだろうか。勿論、その背後には、「ぐうたらで、だらしがない」人間が生きて行くための社会に対する美意識のようなものがある。

 本書に収められている11の短編は、それぞれ鋭いアフォリズムとして読むことができる。それは、日常とはかけ離れたところで、勝手に絶えまなく胡散臭い話が進められている現在にあってこそ有効なものだ。対話を交渉のカードとしか捉えず、特定の国に対して開戦も辞さないような姿勢。平和の維持やテロとの戦いに必要だから軍備を進めるのだという誇大広告。そして、日本はずっと正しかったのだとする刷り込み。

 一方では、そういった姿勢に快哉を叫ぶ人たちが多いのも事実のようだ。自分もいつどこで騙されていないか、まったく油断がならない。

 坂口安吾の文章は、話半分で聴いてみるべきものかもしれない。しかしそこには、やけに壮大な嘘ですべてを塗り固める、政治や言論の「似非マッチョ」ぶりに抗うための真実が散りばめられている。「彼ら」に読んでもらわなくてもいい。「私たち」が読めばいいのである。

◇ ◇ ◇

この坂口安吾のようにアフォリズムとなりうる文学として、安部公房やフランツ・カフカを思い出すが、このアフォリズムというものは、それが衝く筈の者においては感応されないものではないか、などと思ってしまった。

sa