先日ちょっと飲んだ帰路、最寄駅の近くで、新聞記者のDさんにばったり。ちょうど飲みに行くところだというので、そのふたりに便乗して深夜の第2ラウンドに突入した。とても愉快な時間だったのだが、それはともかく。
そのときにご一緒した東琢磨さん(音楽評論家、ライター)から、ご自身が編集された『広島で性暴力を考える 責められるべきは誰なのか?』(ひろしま女性学研究所、2009年)を分けていただいた。
主に、2007年に起きた岩国の米兵による集団強姦事件を機に開かれたシンポジウムの記録がおさめられている。
それぞれの参加者が、ことばの力を振り絞って、この事件に粘りついているものを顕わに示そうとしている。小冊子ながら、気付かない視点に気付かされ、圧倒されてしまう。あのときに多くのひとが、被害者にも非があるということばを口走ってしまったであろう。それが、如何に非対称なものであり、狭隘な意識に基づいているものか、という意識をもっと共有しなければならないようだ。そしてこれは、<あのとき>だけではない。
いくつか大事な指摘を拾ってみる。
○米軍の定義によれば、「女性が同意しない」ということだけでは「強姦」にならず、「誘拐や暴行を加えて」いるものが「強姦」とされる。つまり、こちらはその定義をずっと受け入れており、「日本人への強姦は重罪でない」というメッセージにもなる。
○「日米地位協定」によれば、「公務」中の米兵犯罪の第一次裁判権は米側にある。1995年の沖縄での小学生暴行事件を機に、起訴前でも米軍の「好意的考慮」で身柄引き渡しが可能となっている。しかしこれは凶悪犯罪に限る(つまり、上の定義にも関連する)。また常に形骸化している。
○1953年、法務省は、米兵が起こした事件の処理について、重要な事件以外では裁判権を放棄するよう通達した。この事実に関する資料は国会図書館に存在するが、「米国との信頼関係に支障を及ぼす恐れがある」という理由で、2008年から閲覧禁止になっている。この方針が現在の姿を形作っていることになり、それを相手を怒らせないよう自国民に隠すという本末転倒。
○有事法制に基づいた国民保護計画は、実態は、民間防衛であり、国民が国家を守るという主客転倒がそこに見られる。軍による住民への暴力という姿と重なってくるものだ。
○「平和」という概念は、しばしば、権力補強のためのものになり下がっている。(もちろんこれは、平和を維持するための軍事という意味だけではなく、日常的な姿である。)