週末、ひとの結婚式に出席したのだが、荷物を持ちたくないので、薄い文庫本、魯迅『朝花夕拾』(岩波文庫)をコートのポケットに入れた。ずいぶん前、吉祥寺で人待ちをしていたとき、古本屋で見つけた。
表紙には「無恥で卑劣で残忍な「正人君子」、小ざかしく口先きばかり上手な欧米帰りのハイカラ野郎どもの仮面をはぎ取る」といったふうに、魯迅の意図を書いている。なるほど、歪んだ儒教道徳や既得権なんてものを糞味噌に批判している。ただ、もともと思いつくまま書いたような雰囲気がある作品だということもあって、辛辣な批判も含め、魯迅の語り口を味わう程度に読んだ。
日本留学中の思い出を書いた『藤野先生』が整然とまとまっていて良い作品だ。ただ、妙に腹をくすぐられる傑作は、『犬・猫・鼠』である。魯迅が猫を敵視するようになったのは、彼が幼少時に飼っていた鼠を食ったからだという。それは実は誤解で、実際には使用人が殺したことがわかるのだが、それでも魯迅は猫を敵視する。理由は、猫は雀や鼠を意地悪く弄んでから殺すこと、それから媚態を見せること、だそうだ。屈折していながら妙に素直な語りであり、これも魯迅であると感じる。ただ何かのアナロジーかもしれず、素直に読むだけではいけないのかも知れない。
自分もわりに最近まで、猫をいやらしく卑劣な動物だと決め付けていたにも関わらず、いまでは道端で猫を見つけると嬉しくて仕方ない。優雅に歩いたり走ったりしている姿もいいし、じっとこちらを見る表情もいい。媚態だといえば元も子もない。あるいは、猫又、または「ねこま」の妖術にかかっているのかもしれない。
というのも、久しぶりに、イワン・ポポフ『こねこ』という映画を録画して観ていると、2歳児が異常なほど興奮し、猫が登場するたびに画面を指差して「ニャンニャ、ニャンニャ!」と叫び続けたからだ。これはもう、妖術としかおもえない。