Sightsong

自縄自縛日記

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』

2009-06-06 23:58:19 | 思想・文学

大著、ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』(新潮社、原著1975年)。最近ちびちびと読んでいたのだが、千歳への往復便の機内でようやく読み終えた。ロラン・バルト『表徴の帝国』に「皇居」というキーワードがあるのと同様に、「一望監視施設(パノプティコン)」という印象深いキーワードが独り歩きしているため、わかったつもりになっている古典の典型かもしれない。実際には、そのようなドグマ書ではない。近代の権力支配の変貌が描きだされた傑作である。

18世紀まで、犯罪に対する懲罰は、華々しく残忍な公開処刑、公開拷問であった。そこには、正しい拷問の方法などのコードまで存在していたのであって、専制君主の存在をそのたびに確固たるものにする方法でもあった。見世物としても、相当の人気を博していたという。

「近代の尋問の荒れ狂ったような拷問ではまったくないのであって、古典主義時代のそれは、なるほど残酷ではあるが野蛮ではない。きちんと規定された手続にしたがう規則正しい執行であって、たとえば、拷問の時期・時間、使用される道具類、綱の長さ、重りの重量、楔の数、尋問する司法官の介入の仕方など、こうしたすべては各種の慣行にもとづいて、細心の注意をはらって記号体系(コード)化してある。」

ところが、18世紀後半頃を境に、懲罰のあり方、ひいては監視・支配のあり方がドラスティックに変貌する。その背後にあったヴェクトルが、フーコーによりいくつも、しかも繰り返し仔細に提示される。

総合的な権力神話の創設から、微細かつ連続的な要素から構成される日常的な管理・懲罰への変貌。コード化は、公開懲罰のお作法ではなく、管理される行動・懲罰される行動へと移行するわけである。総合的な判断ではなく要素の組み合わせにより懲罰の程度が一意に定められるため、犯罪者/非犯罪者の二分法ではなく、その間のグラデーションたる<非行>というものが出現する。すなわち、誰もが<非行>なる要素を幾分かは抱え持ち、管理に連続的に組み込まれる。権力は<非行>を作り出す。逆に、従来容認されていた小さな慣行や黙認行為は拘束される。この要素分割は権力支配の形態だが、一方ではフーコーは「知のあり方」をも規定してきたと指摘する。

「行為は諸要素に分解され、身体の、手足の、関節の位置は規定され、一つ一つの動作には方向と広がりと所要時間が指示されて、それらの順序が定められる。時間が身体深くにしみわたるのである。それにともなって権力によるすべての綿密な取締りが。」

行動だけでなく、個人の内面への視線の移行。懲罰を定めるのは、<犯罪>ではなく、内奥の<犯罪性>である。これこそが、規律・訓練を分野横断的に支配的な考えに育てることとなった。犯罪の重さと懲罰の重さは比例せず、監獄ではどの程度社会機能として更正したかが重視される。

「身体ならびに時の流れにかんする政治的技術論のなかに要素として組込まれた鍛錬は、彼岸をめざして高まるのではない。それは完結が絶対におこらない服従強制を目標にしている。」

「完璧な理想社会の夢想をば、好んで思想史家たちは十八世紀の哲学者たちと法学者たちに帰しているが、他方さらに、現実には社会の軍事上の夢も存在したのである。それの関連枠(レファレンス)は自然状態にあったのではなく、一つの機械装置の入念に配属された歯車に存していたのであり、原始的な契約にではなく果てしない強制権に、基本的人権にではなく無限に発展的な訓育に、一般意志にではなく自動的な従順さに存していたのである。」

「一望監視施設(パノプティコン)」が象徴するもの。支配側からのみ一方向的に被支配側を監視することができ、被支配側は個々にお互いの視線に晒される。これが被支配側の相互監視と密告、自ら支配されやすい身体へと化していくことにつながっている。少数者による支配は、<見る>だけで充分なのだ。

既に私たちが得ている規格化(ノーマライゼイション)・監獄化の社会を描き出し、ひとつひとつの指摘や表現が読む者を鈍器で殴る。なぜ鈍器かといえば、次の指摘のように、監獄は社会全体なのであって、ピンポイントの発見ではないからだ。

「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても何にも不思議ではないのである。」

本書が書かれたのは30年以上前だ。現在、仮に故・フーコーが本書に関して言及するとすれば、メディアという共通意思の醸成装置が、相互監視と自発的な被支配化にどのように働いているか、そして、(その作用の結果かもしれないのだが)公開処刑への逆行に見える現在の罰則について、だろうか。


伴野朗『上海遥かなり』 汪兆銘、天安門事件

2009-06-06 12:36:48 | 中国・台湾

もともと今週は中国に居る予定だった。1989年6月4日の第二次天安門事件から20年後の天安門広場にも足を運ぶことができるかなとも思っていた。ところが例のインフルエンザ騒動で延期にせざるを得ず、なぜか北海道や高松、丸亀に行ったりしている。

高松との往復では、伴野朗『上海遥かなり』(集英社文庫、1992年)を読んだ。面白いので昨晩帰宅してからも読み続けいてたら、疲れていたためソファーでそのまま朝まで寝てしまい、なんだか頭が痛い。

汪兆銘の死を巡るミステリーだ。汪は蒋介石と対立し、日本傀儡政権の南京政府を立ち上げ、敗戦前の1944年に名古屋で病没している。そのために、汪は、中国では「漢奸」とされている。

ここからが伴野の創作となる。実は汪は上海で没していたのではないか、という新説が中国の新聞にコラムとして掲載された。興味を持った日本の新聞記者の上海特派員が探ろうとすると、すべてが「上部」により揉み消され、圧力がかけられていく。背景には保守派と改革派の対立があり、民主化運動に共感を示した胡耀邦が没すると、時代の結節点となる第二次天安門事件に雪崩れ込むことになる。

『上海伝説』と同様、伴野朗の中国史に関する知識が散りばめられていて、とても面白い。話の展開に無理もあるが、これは欠点ではないだろう。天安門事件前後の近代化と公安など旧態との共存が、鄧小平、胡耀邦、趙紫陽らの名前とともに描かれる一方、旧日本軍、汪兆銘、蒋介石、周仏海、藍衣社、CC団などを巡る陰謀工作も同時に描かれている。

それから20年経って、いまだ闇の中にあるものは大きい。急にテレビで「当時の民主化運動がいまでも云々」と浅く短絡的な報道をしているのは、何だか苦々しい。

名古屋大学医学部付属病棟ですでに死を予感した汪兆銘は、妻の陳璧君に、大袈裟な葬式も墓も要らないが、広州の白雲山に梅の樹を植えて欲しいと伝えた。陳璧君は、病棟の横に三本の梅の樹を植えることによってその遺志に応えた。2本が枯れ、1本が残っているという。
(桶谷秀明『昭和精神史』、文春文庫、1993年)

●参照
伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』
私の家は山の向こう(テレサ・テン)
燃えるワビサビ 「時光 - 蔡國強と資生堂」展


天安門(2004年頃), PENTAX ESPIO mini, シンビ200


讃岐の漆芸(3) 玉楮象谷と忘貝香合

2009-06-06 09:29:10 | 中国・四国

北海道に日帰り、1日置いて、四国に日帰り。わりとくたくたである。高松で1時間余裕ができたので、また高松市美術館に足を運んだ。目当ては常設の漆芸、あるに違いないと決め込んで。

200円の常設展は、「愛のかたち ピカソから村上隆まで」と「玉楮象谷と忘貝香合」。いままであまり目にできなかった、江戸時代後期の讃岐漆芸のパイオニア、玉楮象谷の作品がいくつも展示されていた。

特に、「狭貫彫堆黒 松ヶ浦香合」、通称「忘貝香合」について、象谷による3点とフォロアーたちによるものを比較することができ楽しかった。「狭貫」は讃岐、「堆黒」は塗り重ねた黒漆を彫る様式である(「堆朱」は同様に朱漆を彫る)。「恋忘貝」のうたと貝が蓋に彫ってある。貝のエッジやぬめり、蓋まわりの四角い文様の目立ち方など、象谷とほかの作品とで趣味が異なっている。

毎回、漆の質感に目を奪われる。爪を立てたくなる硬さの感覚とてかり、ぬめり。実際に手元に置いて触ってみたい。彫漆でも黒と朱ではずいぶん違う。細かい手の入り具合も凄い。タチアオイの花弁とがくをモチーフにした入れ物などは5年もかけて製作されたとある。

ぎろぎろと見ていると、美術館の方に、子ども向けのパンフをいただいた。「蒟醤」(きんま)、「彫漆」(ちょうしつ)、「存清」(ぞんせい)の技法についてわかりやすく図解してあった。


蒟醤」(きんま)


彫漆」(ちょうしつ)


存清」(ぞんせい)

今回もひとつ覚えで(他の店を探す余裕がない)、「源芳」と「かな泉」でうどんを食べた。東京にこんなうどん屋があったら嬉しいのに。「かな泉」のおみやげうどんを入手して帰った。


「かな泉」の海鮮かきあげうどん

●参照
讃岐の漆芸(1) 讃岐漆芸にみるモダン
讃岐の漆芸(2) 彫漆にみる写実と細密