大著、ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』(新潮社、原著1975年)。最近ちびちびと読んでいたのだが、千歳への往復便の機内でようやく読み終えた。ロラン・バルト『表徴の帝国』に「皇居」というキーワードがあるのと同様に、「一望監視施設(パノプティコン)」という印象深いキーワードが独り歩きしているため、わかったつもりになっている古典の典型かもしれない。実際には、そのようなドグマ書ではない。近代の権力支配の変貌が描きだされた傑作である。
18世紀まで、犯罪に対する懲罰は、華々しく残忍な公開処刑、公開拷問であった。そこには、正しい拷問の方法などのコードまで存在していたのであって、専制君主の存在をそのたびに確固たるものにする方法でもあった。見世物としても、相当の人気を博していたという。
「近代の尋問の荒れ狂ったような拷問ではまったくないのであって、古典主義時代のそれは、なるほど残酷ではあるが野蛮ではない。きちんと規定された手続にしたがう規則正しい執行であって、たとえば、拷問の時期・時間、使用される道具類、綱の長さ、重りの重量、楔の数、尋問する司法官の介入の仕方など、こうしたすべては各種の慣行にもとづいて、細心の注意をはらって記号体系(コード)化してある。」
ところが、18世紀後半頃を境に、懲罰のあり方、ひいては監視・支配のあり方がドラスティックに変貌する。その背後にあったヴェクトルが、フーコーによりいくつも、しかも繰り返し仔細に提示される。
総合的な権力神話の創設から、微細かつ連続的な要素から構成される日常的な管理・懲罰への変貌。コード化は、公開懲罰のお作法ではなく、管理される行動・懲罰される行動へと移行するわけである。総合的な判断ではなく要素の組み合わせにより懲罰の程度が一意に定められるため、犯罪者/非犯罪者の二分法ではなく、その間のグラデーションたる<非行>というものが出現する。すなわち、誰もが<非行>なる要素を幾分かは抱え持ち、管理に連続的に組み込まれる。権力は<非行>を作り出す。逆に、従来容認されていた小さな慣行や黙認行為は拘束される。この要素分割は権力支配の形態だが、一方ではフーコーは「知のあり方」をも規定してきたと指摘する。
「行為は諸要素に分解され、身体の、手足の、関節の位置は規定され、一つ一つの動作には方向と広がりと所要時間が指示されて、それらの順序が定められる。時間が身体深くにしみわたるのである。それにともなって権力によるすべての綿密な取締りが。」
行動だけでなく、個人の内面への視線の移行。懲罰を定めるのは、<犯罪>ではなく、内奥の<犯罪性>である。これこそが、規律・訓練を分野横断的に支配的な考えに育てることとなった。犯罪の重さと懲罰の重さは比例せず、監獄ではどの程度社会機能として更正したかが重視される。
「身体ならびに時の流れにかんする政治的技術論のなかに要素として組込まれた鍛錬は、彼岸をめざして高まるのではない。それは完結が絶対におこらない服従強制を目標にしている。」
「完璧な理想社会の夢想をば、好んで思想史家たちは十八世紀の哲学者たちと法学者たちに帰しているが、他方さらに、現実には社会の軍事上の夢も存在したのである。それの関連枠(レファレンス)は自然状態にあったのではなく、一つの機械装置の入念に配属された歯車に存していたのであり、原始的な契約にではなく果てしない強制権に、基本的人権にではなく無限に発展的な訓育に、一般意志にではなく自動的な従順さに存していたのである。」
「一望監視施設(パノプティコン)」が象徴するもの。支配側からのみ一方向的に被支配側を監視することができ、被支配側は個々にお互いの視線に晒される。これが被支配側の相互監視と密告、自ら支配されやすい身体へと化していくことにつながっている。少数者による支配は、<見る>だけで充分なのだ。
既に私たちが得ている規格化(ノーマライゼイション)・監獄化の社会を描き出し、ひとつひとつの指摘や表現が読む者を鈍器で殴る。なぜ鈍器かといえば、次の指摘のように、監獄は社会全体なのであって、ピンポイントの発見ではないからだ。
「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても何にも不思議ではないのである。」
本書が書かれたのは30年以上前だ。現在、仮に故・フーコーが本書に関して言及するとすれば、メディアという共通意思の醸成装置が、相互監視と自発的な被支配化にどのように働いているか、そして、(その作用の結果かもしれないのだが)公開処刑への逆行に見える現在の罰則について、だろうか。