Sightsong

自縄自縛日記

とり天、丸天

2010-05-15 23:33:20 | 九州

今週所用で福岡に足を運んだ際、旨い「とり天」を目当てに、天神の「ルドゥー」まで足を運んだ。食べたところ、もも肉のようであり、自分でも作ることができそうだと考えた(この味になるかはともかく)。ところで、とり天は福岡名物だと勝手に思い込んでいたが、Wikipediaによれば、大分ローカルの食べ物らしい。とはいえ、何度か福岡で食べたことがあるから、広がっているに違いない。

そんなわけで、今日の夕食はとり天に決定、近くのスーパーでもも肉を調達。しかし、諸事情があって、ただのから揚げになってしまった。カロリーオフ、ノープロブレム。しかし、天神のとり天のほうが断然旨かったな。息子はもりもり食ってくれたのだけど。

福岡では、先日、あまりにも懐かしい「丸天」や「すぼ巻」を発見して嬉しかった。今回、柳橋連合市場まで足を延ばして物色したところ、練りもの店がいくつかあった。最初に目に入った「やまくま蒲鉾」で、丸天、すぼ巻、竹輪を買ってほくほくと飛行機に乗り込んだのだった。


竹輪を炙って食べる


丸天は炙って生姜醤油で食べる


(関係ないが)昨夏入手した糸満ワイン

●参照
ダッタン蕎麦、すぼ巻と天ぷら


ブライアン・デ・パルマ『ミッドナイトクロス』『ブラック・ダリア』

2010-05-15 14:06:22 | 北米

休日。家族は用事があって出かけてしまった。疲れて何かをする気もしない。

そんなわけで、録画してあったブライアン・デ・パルマの2作品、『ミッドナイトクロス』(1981年)と『ブラック・ダリア』(2006年)を観る。ああ下らない、これなら大リーグ中継を観ていたほうがよかった。(以前も、休日ひとりデ・パルマ大会をやって無駄な時間を過ごした。人は成長しない。)

『ミッドナイトクロス』は、録音機ナグラを抱えた音響マン、ジョン・トラヴォルタが主役。『サタデー・ナイト・フィーバー』の数年後だから、新たな役に飢えていたころに違いない。原題は『Blow Up』、ミケランジェロ・アントニオーニ『欲望』と同じであり、白黒写真の引き伸ばしがネタになっている。この頃の映画フィルムの雰囲気は好きだ。トラヴォルタの演技は悪くないが、当時の観客は色眼鏡で観ていたのかもしれない。

演出は、相変わらずのしょうもないデ・パルマ節だ。あえて言えば、最後の殺人と花火のシーンか。ジョニー・トー『フルタイム・キラー』との共通項を見出したような気がするが、まあ、トーがデ・パルマを好きであっても不思議ではない。これもいつものことだが、花火シーン一発に向けて映画が成立している。

『ブラック・ダリア』は、・・・駄目だなあ。これも一発芸は殺人の場面であって、同僚を救おうと階段を懸命に駆け上がる男の前を落下するシーンなどは、アルフレッド・ヒッチコック『めまい』か。剽窃と呼ぶかオマージュと呼ぶかは思い入れ次第である。

●ブライアン・デ・パルマ
『ミッション・トゥ・マーズ』『ファム・ファタール』
『リダクテッド 真実の価値』


吉見俊哉『親米と反米』

2010-05-15 00:03:46 | 北米

復刊が話題となっている、フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』からサブタイトルの示唆を得たという、吉見俊哉『親米と反米 ―――戦後日本の政治的無意識』(岩波新書、2007年)。歴史的に構成された無意識的な蓄積は、ジェイムソンの指摘のように、「徹底的に政治的である」。本書は、戦後日本における奇妙な「親米」と「反米」の併存が、いかなる政治的なプロセスを経た結果なのかを明らかにしようとする。

ここで提示されるのは、米国の圧倒的な政治的影響下にあって、米国へのまなざしの中で自我を形成してきた戦後日本のいびつな姿だ。「パンパン」はハリウッドでもあった。テレビは「買うもの」ではなく「やってくるもの」であった。米国流マイホームも、白物家電も、そのような欲望のまなざしに晒され、模倣した文化が文化となった。横須賀や立川や六本木といった軍の街は、欲望のまなざしに晒され、カッコいい街へと反転した。

興味深い広告が引用されている。1959年の松下の広告には、「日本の憲法、第二十五條には、「国民は健康で文化的な生活をいとなむ権利がある」と、うたわれています。この私たちすべての願いが満たされていくもの―――そのひとつに家庭の電化があります」と、「民主化」と「家庭電化」とが結び付けられている。しかしここには、意図的な省略があった。米国流生活様式は生存権ではない。憲法二十五条にある「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」から、「最低限度の」が抜かれているというのだ。

このような「下から」のアイデンティティ形成のプロセスは、日本だけのものではなかったことが指摘されている。例えば、フランス人は、「フランス人の米国嫌い」のように、米国を他者として外部化した。また、フィリピン人は、米国人以上に米国人を演じるようになった。著者は、米国なるものが「きわめて多くの社会で自己想像のための重要な媒介項となっていた」と指摘する。もちろん、安易な相対化はできないのであって、日本は日本の病理を明るい場所に持ってこなければならない。鳩山首相が米国に恫喝されたり揶揄されたりするたびに、率先してその代弁者と化す醜いメディアの姿などは、まさにこの病理に他ならない。

とても興味深いことに、「豊かで自由な米国」への欲望は、占領下の検閲と隠蔽によって内部化されたのだと示唆されている。実はさほど姿を見せないためにアイコン度を増したマッカーサーや、性暴力という本質ではなく派手なファッションをアイコン化した「パンパン」が、増幅し、増殖し、無意識の空隙を充たしていったというわけである。そして、日本の政治的無意識は、基地や暴力といった側面と、それらを外部に放逐して「豊かな米国」を自らの生活に取り込む側面とに分裂した。狭隘なナショナリズムが親米と近い距離にあり、その臭い汁は現在でもなお、メディアや為政者の身体にしみついているということだろう。

著者は終章において、次のように述べている。このまなざしによって、あの都知事が沖縄と米国に関して発し続ける音声を捉えることができる。

戦後日本が行き着いた先での親米感覚の定着は、戦後日本のポスト帝国的性格、すなわちアメリカによって先導されるグローバルな帝国的体制のなかで、日本が占めるようになっていった位置と相関している。90年代以降のこの国でのネオ・ナショナリストたちの台頭は、彼らがアジアの人びととの真摯な対話と過去の再審を拒絶して自己正当化を強弁し続ける限りにおいて、こうしたアメリカとの関係をいささかも変えるものとはなり得ない。