Sightsong

自縄自縛日記

ジョニー・トー(9) 『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』 超弩級の大傑作!

2010-06-03 21:33:45 | 香港

やっと観た、ジョニー・トーの最新作『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(2009年)。原題は『Vengeance 復仇』であり、例によって邦題化が改悪となっている。

開始間際に駆け込んで、喉を湿らせる間もなく上映が始まった。いきなりの衝撃。そこから終了まで、口の中の粘膜はからからに乾いてヒビさえ入り、最後にはちょっと泣いてしまった。『エグザイル/絆』(2006年)もそうだったが、2時間に満たない時間に信じられないくらい多くの旨みを詰め込み、ひたすらに濃密な映画となっている。

アンソニー・ウォン、ラム・シュー、ラム・カートン、サイモン・ヤムといったジョニー・トー映画の常連がまた登場するが、日活アクションのようなマンネリにはならない。プロットではなく、腕をびしりと伸ばした動きや、星座を思わせる彼らの配置に、濃いトーらしさを漂わせている。

相変わらずの工夫に目を見張る。夜のバーベキュー場、スープを鉄板に注いでの湯気の中の銃撃。殺しの検証シーンにおける、犯行時とのオーバーラップ。唐突にナプキンで目隠しをしての銃の組み立て競争。古紙の束を転がしながらの銃撃戦。身体から弾を取り出すときの細かな描写。記憶をなくしていく男の前に現れる死者たち。

アンソニー・ウォンの演じるクワイ(『ザ・ミッション 非情の罠』、『エグザイル/絆』に続いて演じる同じ役)は、一瞬の逡巡を見せつつも「乗りかかった船だ」と義理を貫き、死を迎えるときには、頬を地面に付けてにやりと笑う。ウォンだけではない。トー映画の人物たちは、自らの運命を悟り、淡々ともがきながら、それに従ってゆくように思える。そして、これもトーの定番、料理と食事によって家族や友情のつながりがナマの形で示される。

余談だが、トー映画には頻繁にカメラが登場する。『エグザイル/絆』でのコンタレックス・ブルズアイ、『文雀』でのバルナックライカローライ二眼レフ、『イエスタデイ、ワンスモア』での何かの二眼レフ、『フルタイム・キラー』でのペンタックスZ-1Pといった具合だ。本作では、ポラロイド・SX-70が重要な役目を果たす。『PTU』の撮影時映像では、トーはツァイスイコン・ホロゴンウルトラワイドを握り締めていたし、作品を観れば観るほどトーが熱狂的なカメラファンだという確信が強くなっていく。

とにかく、大傑作『エグザイル/絆』に勝るとも劣らない超弩級の作品だ。まだ動悸が激しいような気がする。

●ジョニー・トー作品
『エグザイル/絆』
『文雀』(邦題『スリ』)、『エレクション』
『ブレイキング・ニュース』
『フルタイム・キラー』
『僕は君のために蝶になる』、『スー・チー in ミスター・パーフェクト』
『ターンレフト・ターンライト』
『ザ・ミッション 非情の掟』
『PTU』


山本義隆『知性の叛乱』

2010-06-03 00:59:13 | 政治

山本義隆は東大全共闘議長としてシンボル的な存在であった。運動から大学アカデミズムを離れ、現在は駿台予備校の有名講師となり、一方では科学史の優れた書をいくつも世に出している。物理学者として卓越していたことはただの伝説ではないようで、同時代を共有したであろう教授が、あれで東大の質が落ちたのだと発言したのを聞いたことがある。

私にとっては、山本義隆は数日間の教師である。高校時代、福岡まで出かけていき、駿台予備校(福岡にはなかったので出張の形)で物理の授業を取った。勿論、そのころ山本義隆という人物の来歴など知るはずもない。この授業が本当に面白く、眼から鱗が落ちる思いだった。文系と理系のどちらに進むか決めかねていた自分には、理系を選ぶには十分な契機だった。(それが良かったのかどうか、今となってはわからない。)

そんなわけで、『知性の叛乱 東大解体まで』(前衛社、1969年)も読みたかったのだが、あまりにも稀少でそのような機会はなかった。ところが、先日、編集者のSさんから、古本屋で見つけたので確保しておいたよ、との連絡があった。御茶ノ水の沖縄料理屋で会い、ありがたく頂戴した。

ここで訴えかけるように記されているのは、大学という権力社会における知性の欠落である。知性というのは、世界一の研究水準がどうとか、ノーベル賞級のどうとかいったことではない。大学という機関が社会のなかに存在していることを認識しうる能力のことであり、ゼニカネが大学のあり方を規定していることに疑いの目を向ける能力のことである。それにも関らず、知的特権階級であるかのように振る舞うことの欺瞞を指摘する能力のことである。そしてさらに、そのような欺瞞の殿堂に保護され、無数の「専門白痴」を生みだす罪深さを指摘する能力のことである。

その意味で、山本義隆が本書を書いた1969年も、現在も、状況は変わっていない。私が大学に残りたくなかった決定的な要因も、こうしたことである(研究の能力は置いておくとして・・・)。「天才・柳沢教授」などいないのだ。

本書では、丸山眞男『「である」ことと「する」こと』を引用して、大学内のヒエラルキーの絶対的な肯定を批判している。「教授である」こと、「民主主義の世の中である」こと、「理性の府である」ことを所与のものとして、「する」こと、問い直すことを否定する、というわけだ。最近では丸山眞男再評価の雰囲気もあるようだが、たしかにこの捉え方は今や日本社会全体を覆っている(つまり、社会人のあなたも私も無関係ではない)。「日米安保」しかり、「大手メディア」しかりである。ならば、現在ならば、サブタイトルは「日本解体まで」とでもすべきだろうか。本書に漲る知性は、知的怠惰、判断停止の日本社会でこそ、再度暴れまわるべきものだ。

「保護された知性などは矛盾した言葉だが、顧みて激流におののいたとすればもはや知性ではない。」

「「日露戦争を知らなかった物理学者」がホメ言葉としてあるようにせまい専門の世界にしか思考が向かわないのであれば、彼は研究の実践主体としてのイデオロギーをもつこともできず、自らを対象化し得ないのであるから責任を問われないのであり、したがって「教育」とか「処分」とかいった人間としての責任をもたなければ不可能な仕事はやるべきではなかろう。」

●参照
山本義隆『熱学思想の史的展開 1』
山本義隆『熱学思想の史的展開 2』