Sightsong

自縄自縛日記

太田尚樹『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』

2010-09-13 23:55:45 | 中国・台湾

大正末期から日本敗戦まで、上海には、中国人も日本人も通った「内山書店」があった。太田尚樹『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』(平凡社新書、2008年)は、店主・内山完造の生涯と、内山書店を巡る知識人たちの動きをコンパクトにまとめた本である。内山完造の弟が開いた神保町の内山書店には、いつも店頭のガラスケース内にこの本が飾られている。

開業当時、自由に本を手に取って眺められ、貸し売り(即金でなく後で支払う)ができる書店は珍しかったという。商売にならないとの助言を聞かず、むしろ口コミでの宣伝になると考えてのことだ。そして書店は、知識人たちが集うサロンになった。その中心には魯迅郭沫若らがいた。

いま、ブックカフェはあってもサロンたる書店などは見当たらない。飲食コーナーはあっても、店主と客との距離は限りなく遠い。親しみやすいような工夫はしてあっても、必ずしも歓迎されているわけではない。100年近く前のこの書店が、極めて魅力的な存在に思われてくる。

中国知識人は日本語の本も求めていた。留学などを通じて知日派になりはしても、帰国後、親日派にはならなかった。当然である。そんななかで交わりあうことができるのは、個人単位であった。内山完造は人と人とを引き合わせ、国家に自身を売らなかったため、中国の歴史に名前を残している。現に、上海の内山書店跡には、立派なプレートがはめ込まれている(銀行になっている)。また上海の魯迅紀念館には内山の胸像と内山書店を模した展示があるし、北京魯迅博物館には魯迅が死の間際に内山に宛てた手紙が展示されている。

しかし内山は、日本においても中国においても、例外的な存在であった。

「郭はかつて亡命中に住んだ、千葉県市川市須和田の旧宅を訪ねた。だが内山は、二十数年前、郭沫若の家の玄関を叩くのは巡査か、探偵か憲兵のほかはいないことを知っていた。当時の町内の人々の冷やかな視線も忘れていなかった。そしていま、新中国の要人をにこやかに出迎えている町内の老若男女の群れを、内山は複雑な気持ちで眺めていた。」

●参照
魯迅の家(1) 北京魯迅博物館
魯迅の家(2) 虎の尾
魯迅の家(3) 上海の晩年の家、魯迅紀念館、内山書店跡
魯迅グッズ
丸山昇『魯迅』
魯迅『朝花夕拾』
井上ひさし『シャンハイムーン』 魯迅と内山書店


伊波普猷『古琉球』

2010-09-13 00:18:35 | 沖縄

インドからの帰路、伊波普猷『古琉球』(岩波文庫、原著1911年)を読む。

かつての浦添の繁栄(那覇との間は干潮時にのみ往来できたという)、那覇の久米にあったチャイナタウンと北京への派遣、琉球音楽の始祖アカインコ久高島古宇利島の開闢神話、向象賢(羽地朝秀)蔡温といった琉球王国の政治家など、歴史や民俗の分析は非常に興味深い。

しかし、どこを切っても滲み出てくるのは、日琉同祖論を中心に据えた揺れ動きである。伊波の日本から琉球へのかつての移動を説いた日琉同祖論は、琉球から日本への流れを構想した柳田國男のそれとは正反対ながら、共鳴してもいる。

「思うにこれらの言葉はたしかに琉球人の祖先が大和民族と手を別ちて南方に移住したころに有っていた言葉の遺物である。琉球の単語は十中八九までは日本語と同語源のものであるといっても差支はない。」

それは日本による支配の歴史と無関係ではありえない類の歴史だ。琉球処分に関しては、歴史的必然だと言わんばかりの客観性の装い、あるいは諦念のようなものが見え隠れする。同祖に向けられた願望も読むことができるかもしれない。それが向けられた先は、「ピープル」ではなく「ネーション」であった。

「沖縄人が嶮悪なる波濤と戦いつつ、いわゆる三十六島の民を率いて、一個の王国を建設したということは、政治的人民たることを証して余りがある。この点に於ても彼らは北方の同胞に酷似している。」

「沖縄人は過去に於てあれだけの仕事位はなしたから、他府県の同胞と共に二十世紀の活舞台に立つことが出来るのであります。アイヌを御覧なさい。彼らは、吾々沖縄人よりもよほど以前から日本国民の仲間入りをしています。しかしながら諸君、彼らの現状はどうでありましょう、やはりピープルとして存在しているではありませんか。あいかわらず、熊と角力を取っているではありませんか。彼らは一個の向象賢も一個の蔡温も有していなかったのであります。」

政治的人間であることが、日本という大きなネーションへの合流という「歴史的必然」への条件であるかのようだ。例えば、廃藩置県という琉球処分に関しては、沖縄をフジツボになぞらえている。政治的圧迫という嵐に耐える生物、それは適切な行動であったとしながらも、「進化」「改造」を必要としている。さらに遡り、1609年の島津侵攻については、安穏と暮らしていた民を襲った倭寇、それまでの本島による先島支配・収奪の加害者が被害者になったのだとの第三者的な観方も繰り返し提示している。

「それはそれとして、赤蜂を誅戮し、空広を威圧した沖縄為政者の後裔が、一世紀もたたないうちに、島津氏に征服されて、先島人と運命の類似者となったのは、いささか皮肉である。」

だからこそ、身の置き所の揺れ動きが目立つのである。伊波が「日本民族の一分派なる沖縄人」と表現するとき、そこには生存弱者としての認識と、その裏返しの強者への願望があった。

冨山一郎『伊波普猷を読むということ―――『古琉球』をめぐって』(『InterCommunication』No.46, 2003 所収)に、興味深い指摘がある。現在の『古琉球』のヴァージョンは伊波本人により幾度もの改訂がなされたものであり、例えば、以下の言葉も現在のヴァージョンには存在しない。

「只今申し上げたとほり一致してゐる点を発揮させることはもとより必要なことで御座ゐますが、一致してゐない点を発揮させる事も亦必要かも知れませぬ。」

一致している点とは「同祖」、それでは一致していない点を発揮させると言った伊波のマインドも、揺れ動いていたということである。そして、伊波後の知識人のマインドも、島袋全発のそれを見てわかるように、やはり揺れ動いていた。

●参照
村井紀『南島イデオロギーの発生』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
屋嘉比収『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
由井晶子「今につながる沖縄民衆の歴史意識―名護市長選挙が示した沖縄の民意」(琉球支配に関する研究の経緯)