Sightsong

自縄自縛日記

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント

2012-02-02 17:40:20 | 環境・自然

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)を読む。

著者の語り口は平易にして、既に認識していることが多くとも、本質的な括りを行っている。福島や沖縄を「犠牲のシステム」と呼ぶことも、こちらの気持ちを貫くものだ。何が「犠牲」か。福島については言うまでもなく被曝の危険(それは、被曝の事実と化した)であり、沖縄については、基地の負担・危険、また他者を殺める加害者と化すことの強制である。

重要な点のひとつは、原発や基地の見返りとしてオカネを得ていることへの視線だろう。しかしそれは結果的にそのような構造にしてしまったということであって、「犠牲」となる当事者自らが望んだものではない。原発の招致行動やそれを可能にした民主主義(多数決主義)があったことは事実とは言え、その前の圧倒的な権力差を忘れてはならない。原発の「絶対安全」とのウソや、原発や基地を拒否すればさらなる権力差が生まれるのではないかとの恐怖を明らかに利用しての「犠牲のシステム」構築であったのだ。ここには、著者が『戦後責任論』で説いたような他者との<応答>などなく、徹底的に非対称である。

さらには、「天罰」論にも踏み込んでいる。石原慎太郎の暴言以前に、関東大震災の後にも同様の言説はあったのだという。著者が指摘するのは、仮に「犠牲者」を含む日本人の所業が「天罰」に値するものであったとしても、その「天罰」を受ける者が既に色分けされていたのだということだ。誰に「犠牲者」を定める権利があるのか、それを定めてきた為政者は決して「犠牲者」にならないのではないか、と。ましてや、「犠牲」によってその恩恵を受ける者が、その「犠牲者」を讃えて「犠牲のシステム」への視線を回避させるようなことはあってはならないことではないか、と。

「・・・関東大震災は天罰だった、東日本大震災は天罰だった、長崎原爆は天恵だったという話にするなら、自分個人にとって出来事がどういう意味をもつのかという次元をはるかに超えてしまう。そうした出来事を客観的に意味づけ、そこで死んだ多くの人々、一人ひとりみな違っていた人々を人括りにして、自分から一方的に彼ら彼女らへその死の意味を押しつけるかたちになってしまう。そこには大きな問題があるということを確認しておきたい。」

すべての思考と判断とを停止し、権力を内包する物語をのみ正統とするのではなく、<マルチチュード>的に存在を示すこと。昨年から霞が関に居ることによって存在を主張し続ける「脱原発テント」は、まさにそれなのだろう。辺野古のテントや、高江のテントや、上関の小屋や、キャンベラの「テント・エンバシー」のように。

昨日初めてお邪魔した「脱原発テント」では、そこにおられた方から興味深い話を聞いた。大飯原発と川内原発に使われている部品が、コストダウンのため、1個のステンレス製から5個の鋳物を溶接したものに変えられている。安全を左右する部品であり、ことは重大である、と。これは確認しなければならない。

いつも愛読しているブログ「隙だらけ好きだらけ日記」の永田浩三さんが、同じいま、「脱原発テント」を訪れ、同じ本を読んでおられた(>> リンク)。こういうシンクロニシティも<マルチチュード>的だと思いたい。

 

●参照
高橋哲哉『戦後責任論』
徐京植のフクシマ(本書で言及)
末木文美士『日本仏教の可能性』(本書で言及)

●参照(原子力)
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『これでいいのか福島原発事故報道』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
黒木和雄『原子力戦争』
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
『伊方原発 問われる“安全神話”』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
今井一『「原発」国民投票』
長島と祝島
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
既視感のある暴力 山口県、上関町
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』


小熊英二『単一民族神話の起源』

2012-02-02 11:49:02 | 政治

小熊英二『単一民族神話の起源 <日本人>の自画像の系譜』(新曜社、1995年)を読む。

本書は、日本人のルーツを探そうとするものではない。日本の論客たちが、明治から戦後にかけて、自らの姿をどのように視ようとしていたのかを追った労作である。これを読むと、中曽根康弘の発言に代表されるような純血単一民族論の歴史は存外に浅いことがわかる。

日本民族起源論は、明治期に米国から来日したエドワード・S・モースを嚆矢とする。そこから敗戦まで、主流は、混合民族論であった。各主張での細かな違いはあれ、日本人のルーツは、東南アジア(南)、大陸、朝鮮半島、アイヌなどに求められた。日鮮同祖論もその文脈に位置づけられ、神功皇后桓武天皇が朝鮮半島をルーツとすることがその根拠とされた。現在、純血単一民族論を否定するため、この根拠を引用することが多くみられるのは、実は奇妙な回帰現象なのである。

興味深いのは、混合民族論も、日鮮同祖論も、純血単一民族論も、すべてがアジア侵略を下支えする言説へと収斂していったことだ。曰く、混合民族だからこそ優秀、曰く、日本と朝鮮とは同じ祖先を持つのであるから同化すべき。欧米列強から優秀な日本がアジアを護るべきだとの欺瞞は、そういった言説の一部に過ぎない。

そして、必ずしもすべてが意図的な政治利用ではなく、何がしかの個人的な信念に支えられてもいた。たとえば、朝鮮人の創氏改名(1940年)に至るまでには、日鮮が同祖であるのに関東大震災時の大虐殺のようなことがあってはならない、という差別解消への善意さえもあった。同じ姿かたちであるなら、名前で区別できないようにすればよい。そこには、朝鮮人自身がどう考え、判断するかという観点は極めて乏しかった。地獄への道は善意から、である。

沖縄についても、歴史的な意志と無縁ではありえない。柳田國男伊波普猷の言説も、それらと共鳴する面があった。伊波普猷は、朝鮮半島から列島に到来した民族が、片や神武東征でアイヌを征服し、片や沖縄で南方系民族を征服した、と考えた。柳田國男は、日韓併合に関わった官吏でありながらそれを健忘し、ルーツを沖縄に求めた。

「・・・柳田がその気だったなら、彼は喜田とならぶ、あるいはそれ以上の混合民族論のイデオローグになれただろう。だが、彼は山人論を同化政策に結びつけることはしなかった。その理由ははっきりしないが、推測でいえば、具体的な政策現場にいたリアリストの彼は、民族起源論で現代の政策を左右した気になっている者たちが混合民族論を大合唱することに、うんざりしていたのではないだろうか。(略)
 山人論を放棄したあと、柳田は南島論にむかった。」

このメンタリティは、<島>への同化であった。当時のアジア侵略の文脈とは異なる。しかし、それが歪みであり、その後の純血単一民族論への道を拓いていたのは確かなようだ。

「・・・柳田は、大日本帝国のマイノリティである朝鮮やアイヌ、そして山人に対し自覚的でありながら、あえて彼らへの関心を切りすてた。以後の彼は、欧米の脅威にさらされる島国日本の常民を、世界におけるマイノリティとして描き、日本独自の土着文化の防衛と統一を志向していくのである。」

アイヌは常に語られる他者であったわけではない。スサノヲの半島渡来と同じく、義経=ジンギスカン伝説は、日本の大陸侵略に好ましいものであった。そして、アイヌ自身も自らの祖先伝説に義経を重ね合わせるようになった。著者は、このことについて「アイヌが自分たちの神を和人に認めさせるには、和人が称える人物と同一とするのが、屈辱的ではあるが一つの方法であった」としている。

現在、このような言説の変遷を認識せず、純血単一民族を先祖がえりのように否定したり、まるで歴史のロマンであるかのように自分は何何系だと語ってみたり、ヤポネシア論を位置付けのみで語ってみたりすることは、実は正しい方向への是正ではないのである。文脈こそが権力だったのであるからだ。

さまざまな権力のための言説は、大戦末期になると、本来はその矛盾を噴出させるはずだった。純血単一民族論が台頭するのは敗戦にいたってからだ。帝国が版図を縮小し、日鮮同祖論と混合民族論が勢力を失うと、記紀神話をフィクションとして否定したうえでの純血単一民族論が受け入れられていくようになる。

「結局、大戦後期の日本民族論は起源に言及しない抽象的スローガンばかりとなり、やがて紙不足により媒体そのものが消滅していってしまう。一般の国民には、おそらく民族という言葉がやたらと高唱されたという印象しかのこらなかったであろう。あとに残されたものは、論理的・物理的ともに沈黙だけであった。」

著者は、こういった歴史的なまちがいを克服するためには、神話からの脱却しかないと説く。

「大日本帝国は国境をこえて膨張していったし、混合民族論が論調の主流を占めていたし、コメの輸入国だったし、多民族帝国だったのだ。国際化しさえすれば、純血意識を打破しさえすれば、多民族国家になりさえすれば天皇制や日本社会の欠点が解消できるなどという考えは、大日本帝国への誤解にもとづくものであり、単にまちがいであるばかりでなく、危険である。」

●参照
尹健次『民族幻想の蹉跌』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
柳田國男『海南小記』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
伊波普猷『古琉球』
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』


半年ぶりの新宿思い出横丁とゴールデン街

2012-02-02 04:20:29 | 関東

半年ぶりに新宿思い出横丁に足を運び、写真家の海原修平さんと酒を呑む。いつか入りたいと思っていたモツ焼の店は人で一杯、それではと「トロ函」に入って鮪カマや蟹味噌をつついた。話はほとんど写真、カメラ、中国のこと。もはや作ることができない昔のレンズが今後さらに大事なものになっていくだろうとの指摘には共感した。海原さんは、リコーのGXR(Mマウント)に、アダプターを介してライカRのズミルックス50mmF1.4を付けておられた。

そのままゴールデン街に移動し、「十月」、「遠足」の2軒を紹介していただいた。ママもお客さんも愉快だった。海原さんはその「十月」で、今年の3月15日から写真展を開くという。新たな作品群のプリントを観るのが楽しみである。


「トロ函」


「十月」と「遠足」

●参照
ジョセフ・クーデルカ『プラハ1968』の後の新宿思い出横丁とゴールデン街
三田の「みの」、ジム・ブラック
海原写真の秘密、ヨゼフ・スデク『Prazsky Chodec』
海原修平『消逝的老街』 パノラマの眼、90年代後半の上海
2010年5月、上海の社交ダンス