高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)を読む。
著者の語り口は平易にして、既に認識していることが多くとも、本質的な括りを行っている。福島や沖縄を「犠牲のシステム」と呼ぶことも、こちらの気持ちを貫くものだ。何が「犠牲」か。福島については言うまでもなく被曝の危険(それは、被曝の事実と化した)であり、沖縄については、基地の負担・危険、また他者を殺める加害者と化すことの強制である。
重要な点のひとつは、原発や基地の見返りとしてオカネを得ていることへの視線だろう。しかしそれは結果的にそのような構造にしてしまったということであって、「犠牲」となる当事者自らが望んだものではない。原発の招致行動やそれを可能にした民主主義(多数決主義)があったことは事実とは言え、その前の圧倒的な権力差を忘れてはならない。原発の「絶対安全」とのウソや、原発や基地を拒否すればさらなる権力差が生まれるのではないかとの恐怖を明らかに利用しての「犠牲のシステム」構築であったのだ。ここには、著者が『戦後責任論』で説いたような他者との<応答>などなく、徹底的に非対称である。
さらには、「天罰」論にも踏み込んでいる。石原慎太郎の暴言以前に、関東大震災の後にも同様の言説はあったのだという。著者が指摘するのは、仮に「犠牲者」を含む日本人の所業が「天罰」に値するものであったとしても、その「天罰」を受ける者が既に色分けされていたのだということだ。誰に「犠牲者」を定める権利があるのか、それを定めてきた為政者は決して「犠牲者」にならないのではないか、と。ましてや、「犠牲」によってその恩恵を受ける者が、その「犠牲者」を讃えて「犠牲のシステム」への視線を回避させるようなことはあってはならないことではないか、と。
「・・・関東大震災は天罰だった、東日本大震災は天罰だった、長崎原爆は天恵だったという話にするなら、自分個人にとって出来事がどういう意味をもつのかという次元をはるかに超えてしまう。そうした出来事を客観的に意味づけ、そこで死んだ多くの人々、一人ひとりみな違っていた人々を人括りにして、自分から一方的に彼ら彼女らへその死の意味を押しつけるかたちになってしまう。そこには大きな問題があるということを確認しておきたい。」
すべての思考と判断とを停止し、権力を内包する物語をのみ正統とするのではなく、<マルチチュード>的に存在を示すこと。昨年から霞が関に居ることによって存在を主張し続ける「脱原発テント」は、まさにそれなのだろう。辺野古のテントや、高江のテントや、上関の小屋や、キャンベラの「テント・エンバシー」のように。
昨日初めてお邪魔した「脱原発テント」では、そこにおられた方から興味深い話を聞いた。大飯原発と川内原発に使われている部品が、コストダウンのため、1個のステンレス製から5個の鋳物を溶接したものに変えられている。安全を左右する部品であり、ことは重大である、と。これは確認しなければならない。
いつも愛読しているブログ「隙だらけ好きだらけ日記」の永田浩三さんが、同じいま、「脱原発テント」を訪れ、同じ本を読んでおられた(>> リンク)。こういうシンクロニシティも<マルチチュード>的だと思いたい。
●参照
○高橋哲哉『戦後責任論』
○徐京植のフクシマ(本書で言及)
○末木文美士『日本仏教の可能性』(本書で言及)
●参照(原子力)
○鎌田慧『六ヶ所村の記録』
○『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
○『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
○使用済み核燃料
○有馬哲夫『原発・正力・CIA』
○『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
○山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
○『これでいいのか福島原発事故報道』
○開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
○黒木和雄『原子力戦争』
○福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
○東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
○『伊方原発 問われる“安全神話”』
○原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
○『科学』と『現代思想』の原発特集
○石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
○今井一『「原発」国民投票』
○長島と祝島
○長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
○長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
○長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
○既視感のある暴力 山口県、上関町
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
○1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』