Sightsong

自縄自縛日記

アンディ・シェパード『Movements in Color』、『In Co-Motion』

2012-02-25 23:30:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

アンディ・シェパードを2年前にパリで聴いて以来、『Movements in Color』(ECM、2009年)を聴こう聴こうと思いながらようやく今になって入手した。

Andy Sheppard (ss, ts)
John Parricelli (ac-g, el-g)
Eivind Aarset (el-g, electronics)
Arlid Andersen (b, electronics)
Kuljit Bhamra (tabla, perc)

巧いサックスである。その分、味という面で希薄だ、などと言えないほど巧い。ルイ・スクラヴィス然り、ミシェル・ポルタル然り、ここまで吹ければそれを活かした音楽になる。

ECM独自の数秒の静寂から、まるで叫んでいるような音ではじまる。そしてタブラ、弦楽器、エレクトロニクスのサウンドの中を、濁らない音色のサックスがドラマチックに泳ぎ続ける。どの曲も緻密にして自由さが損なわれておらず、まさにライヴで感じた感嘆をあらたにした。

なかでも、2曲目の「Bing」は、同じフレーズを繰り返しながらタブラとともにスピードアップしていくさまがまるでインド伝統音楽であり、微笑んでしまう。

それに比べれば、改めて聴く旧作、『In Co-Motion』(Island Records、1991年)はいかにも時代遅れのサウンドに聴こえる。

Andy Sheppard (ts,ss, Yamaha WX11 wind sythesizer)
Clande Deppa (tp, flh)
Steve Lodder (kg, p)
Sylvan Richardson Jr. (el-b, g)
Dave Adams (ds, perc)

シェパードのよりアウトするフレーズは時にまるでマイケル・ブレッカーでさえもあり、やはり現在のスタイルの方に円熟と個性を感じる。


Andy Sheppard (2010年) Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+2増感)、フジブロ4号

●参照
アンディ・シェパード、2010年2月、パリ


篠原哲雄『地下鉄に乗って』と浅田次郎『地下鉄に乗って』

2012-02-25 17:51:21 | 関東

篠原哲雄『地下鉄に乗って』(2006年)を何の気なしに観たところ、存外にも引きこまれた。大会社社長(大沢たかお)の息子・真次(堤真一)は、父親に反発し、小さな下着のセールス会社で働いている。妻との関係は悪く、一方で同僚のみち子との関係を持っている。ある日、中学時代の教師(田中泯)と永田町駅で偶然再会、それを機にタイムスリップを繰り返す。その時代は、兄が家を飛び出して事故死した日であったり、父が満州から引き揚げてきて闇市で稼いでいた時だったり。さらには、父の出征、父が満州で開拓民を護って闘う場面にもジャンプする。そして、真次は、みち子が、同じ父を持つ腹違いの妹であると知る。みち子は、兄妹ゆえ許されない関係であると覚悟し、自分自身を身ごもっている母とともに石段を転がり落ち、自らの存在を消す。

はじめにタイムスリップする過去は、東京オリンピックが開催された1964年、新中野駅の鍋屋横丁だった。わたしの生まれる前であるものの、ディテールが面白い。実在した映画館・オデオン座では、『キューポラのある街』『肉体の門』(鈴木清順版)、『上を向いて歩こう』を上映している(『肉体の門』以外は2年前の封切りであり、同時上映の名画座ということなのだろう)。赤電話。パチンコ屋の景品はピースの煙草。2年近く前に、『キューポラのある街』のシナリオ集を古本で買ったら、中にピースの空き箱が挟まっていたことも、偶然としては出来過ぎていて愉快なのだった(>> リンク)。

堤真一や田中泯という存在感のある役者を使っていることも嬉しい。堤真一に感情移入して、何だか身につまされてしまった。女性が、「愛する人の幸せ」のために自殺を選ぶことには、共感しかねるものがあるのだけれど。

忘れないうちにと、浅田次郎による原作小説(講談社文庫、原著1997年)も読んだ。 いつも機内誌のエッセイで馴染んでいる、簡潔な文章が良い。

上野駅、神田駅、銀座駅と東銀座駅とをつなぐ地下道など、歴史を感じさせるところを使って、時代の雰囲気を描いている。東銀座の日産自動車あたりは、一面の廃墟でそこが闇市になっていたのだな。この佳作を、うまく映画化したことも改めてわかる。

ただ、多少の設定の違いはある。煙草はピースではなくパールである。映画では堤真一はIWCの時計をつけていたが(これが、若き日の父の手に渡るという仕掛け)、原作では安物。父が闇市で稼ぐのは、米軍から横流しされた砂糖の売買によってではなく、PX(米軍の売店)で米兵と詐称して安く買ったライカとコンタックスの転売である。ライカであればM3登場前のバルナック型の時代、ぜひこれを映像にしてほしかったところだ。

●参照
鈴木雅之『プリンセストヨトミ』(堤真一)
横山秀夫『クライマーズ・ハイ』と原田眞人『クライマーズ・ハイ』(堤真一)
『時をかける少女』 → 原田知世 → 『姑獲鳥の夏』(堤真一)
姜泰煥・高橋悠治・田中泯
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)
犬童一心『メゾン・ド・ヒミコ』、田中泯+デレク・ベイリー『Mountain Stage』


パンソリのぺ・イルドン

2012-02-25 11:22:03 | 香港

NHK-BSプレミアムの『Amazing Voice』で、韓国のパンソリを紹介していた(>> リンク)。

登場するのは歌い手ペ・イルドン。ドキュメンタリー『人はなぜ歌い、人はなぜ奏でるのか/韓国の鼓動と踊る ~オーストラリア人ドラマーの旅』(エマ・フランズ)(>> リンク)では、山中に7年棲み、滝の音に負けないよう毎日歌い続ける姿を捉えていた。この番組では、既に山を下り、韓国のあちこちで歌う一方、パンソリを他人に教えるようになっている。

それにしても凄まじい声である。絞り出すのではなく空間を作り出すような声法、それは感情とあまりにも直接的につながっている。

パンソリは韓国南西部の全羅道で生まれたものだという。「パン」は場、「ソリ」は歌。全羅道差別はよく知られたところだが、このような芸との関連はいかなるものだろう。

●参照
『人はなぜ歌い、人はなぜ奏でるのか』 金石出に出会う旅
金石出『East Wind』、『Final Say』
ユーラシアン・エコーズ、金石出
姜泰煥+サインホ・ナムチラック『Live』
姜泰煥・高橋悠治・田中泯
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)


久江雅彦『日本の国防』

2012-02-25 00:56:51 | 政治

ドーハのホテルで時間を持て余し、久江雅彦『日本の国防 米軍化する自衛隊・迷走する政治』(講談社現代新書、2012年)を一気に読んでしまった。『米軍再編 日米「秘密交渉」で何があったか』を書いた人である。

戦後、「冷戦の落とし子」として米国の意向に沿う形で誕生して以来、自衛隊はしばらくは「日陰者 」扱いを余儀なくされた。吉田茂は、1957年の防衛大学校第一回卒業式において、「・・・言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」との訓辞を述べたという。それが、今では防衛庁は省に昇格し、「制服組」も政治家たちの政策決定に関与するようになり、さらには国際貢献と詐称して憲法違反の海外派遣を行ってさえいる。本書は、そのあたりの経緯を具体的に示してくれている。

勿論、このプロセスが、シビリアン・コントロールのなし崩しの崩壊であることは確かだ。本書によれば、シビリアン・コントロールとは、①国会における統制、②首相や防衛相などによる政府内の統制、③防衛相の下にクッションを置くことによる統制、の3つである。このうち③が日本独自のものであったようで、クッションとは参事官(官僚)が務め、「制服組」がトップと直結しない仕組であった。これこそが「制服組」の抑圧された不満であり、石破茂防衛相(当時)が後押しすることで廃止されたのだという。

シビリアン・コントロールの崩壊だけが問題なのではない。シビリアンに他ならない外務省自らが率先し、米国の意に沿う政策を誘導してきた。アフガン攻撃時の「Show The Flag」やイラク戦争時の「Boots On The Ground」は、伝えられているように米国の高官が日本を脅すために発言したのではなく、外務官僚が外圧を装って作りあげた「作文」であったのだ。鳩山首相が普天間基地の県外移設を打ち出したとき、外務官僚たちが米国政府に対して、柔軟になるな、譲歩するなと働きかけ続けていたというエピソードもあった(山口二郎『政権交代とは何だったのか』>> リンク)。そのように大所高所から国家をコントロールする権利が、どこにあるというのだろう。

とは言いながら、本書も、米国の軍事戦略に乗る形での安全保障というストーリーが、何よりも最優先されるのだの陥穽にはまっているように思えてならない。PKOで仮に戦死者が出たら政治の「腰が引けてしまう」かもしれないと指摘したうえで、「問われているのは、政治家の覚悟であり、私たちの覚悟でもある」などと書く。誰にどのように問われているのでしょうか、「私たち」とは、「覚悟」とは何でしょうか。突然「公」を装うのは欺瞞でしかない。

この印象は、沖縄の普天間、辺野古についての章においてさらに強くなる。著者は、愚かなメディアによって繰り広げられた「鳩山首相が寝た子を起こして与えなくてもいい人(=沖縄住民)に希望を与えてしまったがために、問題がこじれた」論を展開したうえで、それがなければ辺野古で政治合意がなされた可能性があった、と残念そうに書いているのである。おそらく、一応は書いていても、憲法や環境保全など脇に置かれるべきだと考えているのだろう。勿論、住民が絶対にイヤだと身体を張って主張し続けているにも関わらず、それを押しつぶしていくファシズム国家の姿の是非など、かけらも論じられていない。

以下の文章が、いかに一面的でつまらぬ「現実主義」に過ぎないか。

「このままでは、世界で最も危険と言われる普天間飛行場は、いつまでも市街地に居座り続ける。
 大きな事件や事故が起きれば、米軍撤退論が火を噴いて、「要石」と位置づける沖縄から日米同盟は崩れかねない。」

●参照
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集
終戦の日に、『基地815』
『基地はいらない、どこにも』
前泊博盛『沖縄と米軍基地』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
○シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(1)(2)(3)(4)(5)(6
押しつけられた常識を覆す
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』