Sightsong

自縄自縛日記

ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』

2012-02-12 23:44:28 | ヨーロッパ

ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』(2006年)を観る。森の中での暗いながらも鮮やかな撮影がいい。

1944年。既にスペイン内戦(スペイン市民戦争)に勝利しているフランコ政権は、反乱軍の掃討に力を注いでいた。少女オフェリアの母は、総統軍の大尉と再婚し、息子を身ごもっている。大尉は敵にも妻にも、また連れ子のオフェリアにも残忍かつ冷酷であり、自分の意思に背く者は平気で命を奪うような男である。オフェリアは、地下でかつて栄えた王国の血をひいていた(事実なのか、逃げ出したいオフェリアの妄想なのかわからない)。そして王国の妖精たちは、復興を成し遂げるため、王女となるべきオフェリアに協力を依頼する。

スペイン内戦は1939年に終結するも、その後も抵抗と弾圧の時代が続いていたことを示してくれる作品である。戦後もフランコは独裁政権を維持し、1975年まで生き長らえた。

しかし、一方で、内戦下のスペインに多数の国から市民が馳せ参じたことは、ひとつの歴史上の原点となり、その後のクロスボーダーでの市民レベルでの連携につながっている。この映画における妄想の王国は、アンダーグラウンドにならざるを得なかった民主社会への希求の象徴でもあるように思える。

●参照
スペイン市民戦争がいまにつながる


田中啓文『聴いたら危険!ジャズ入門』

2012-02-12 10:27:02 | アヴァンギャルド・ジャズ

田中啓文『聴いたら危険!ジャズ入門』(アスキー新書、2012年)を読む。タイトルだけ見たら誤解する、これは「フリージャズへの愛を語った本」である(いや、あえて誤解を招いて落とし穴に誘いこもうとしているのか)。ブログ仲間のjoeさんや、ツイッターで呟き合うサックス奏者の吉田隆一さんらが執筆協力者として寄稿しているとあって、発売日を心待ちにしていた。そして、あまりの面白さにあっという間に読み終えてしまった。

最初に紹介しているプレイヤーがペーター・ブロッツマン。「いきなりギャーッと馬鹿でかい音で吠え、そのあと吠えて、吠えて、吠えまくり、途中で音が裏返ったら、そのままフラジオに突入し、ピーピーいわせて終わり・・・・・・だいたいこのパターンだ」とのくだりで、いきなり脇腹が痙攣しそうな笑いに襲われる(電車の中なので困る)。ローランド・カークを船長に例えたと思ったら、突然「カーク船長」が出てくる。ファラオ・サンダースは山師。アート・アンサンブル・オブ・シカゴは「ヘタウマの王様」。ドン・チェリーをスナフキンに例えて話しているうちにそれていく。ジュゼッピ・ローガンの「想像を絶する下手くそさ」(爆笑)。ハミエット・ブルーイットの「ぶっとい低音と張り切った高音」。姜泰煥のあり得なさ。チャールズ・ゲイルの音=生き物論。ヘンリー・スレッギルのカオスから魅惑への転換。ウィリアム・パーカーの「重さと速さの同居」(自分は、ラオウの剛の拳とトキの柔の拳との同居だと思っていた)。川下直広の「波のような息づかい」。

もちろん「そんなことないだろ!」と言いたくなる箇所はある。個性を最大限に尊重するフリージャズであるから当然である。むしろ、多くの「ブギャー」という音を発し続けるプレイヤーたちの個性をことばで表現する、「ことばの立ち上がり」こそがひたすら面白い。

どこかの権威主義的でレイシズムにまみれたジャズ評論家のディスク紹介本を読むくらいだったら、本書を読んでは自分のイメージとの重なりやズレを反芻するほうが百万倍愉快である。「有益」とか「名盤」とか考えて音楽に接する精神とは、本書は対極に位置する。地獄への道かもしれないが、それもよし。


ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの

2012-02-12 08:37:49 | 小型映画

ジョナス・メカスの新作『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』(2011年)を観るために、恵比寿写真美術館に駆け付けた。アジア初上映である。メカスの映画の上映に足を運ぶのは、2006年に『グリーンポイントからの手紙』(2004年)を観て以来だ。もはや16mmのボレックスなどではなく、デジタルヴィデオを用いて撮られている。おそらくは『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』(2000年)あたりが、メカスのフィルム時代の掉尾を飾った作品ということになるのだろう。

今回の上映にあわせてメカス自身が来日することはなかったが(最近ツイッターで、2005年に来日した際のレセプションにおいて私がメカスに話したことを覚えておられる方を発見して仰天した)、その代わり、アンソロジー・フィルム・アーカイヴズの方2人による上映前の挨拶があった。曰く、何十年も活動しているメカスだが、園作品には難民として苦労した経験が底流として横たわっている。これは『千夜一夜物語』をモチーフにしたもので、輪廻転生や動物との話といったエピソードが入っている。2007年にウェブ上で毎日何かを記録したプロジェクト『365 days project』が成功した翌年、それでは千夜に拡げようとして始めたものだ。メカスならば上映前にコメントを言うことはないだろうね、と。(ところで、彼らの英語は平易なものだったにも関わらず、『千夜一夜物語』の基本的な知識がない方が通訳を務めていて難儀をしていた。これは少なからず失礼だ。)

デジタルヴィデオだからといって、メカスのスタイルはまったく変わらない(もっとも、ボレックスの故障によるフリッカーなどはないが)。手持ちで気の向くままに撮影し、そのフッテージの集積から作品へと抽出する。幕間の、紙に印刷されたタイトルやメッセージも健在である。ずっと観ていると、酔ってしまう。昔、リバイバル上映ではじめて『リトアニアへの旅の追憶』(1971-72年)を観たときの衝撃=メカス体験も、この「酔い」だった。

映画は、確かに『千夜一夜物語』を思わせる雰囲気ではじまる。マリーナ・アブラモヴィッチが恋人と別れてどん底だと毒づき続ける顔の超アップ、そして、さらに悲惨な話がある、として、突然落馬して血だらけになった女性の紹介へと進む。しかしその後は、メカスの心臓の鼓動のようにさまざまな時空間があらわれる。

オノ・ヨーコと踊るメカス。以前に住んだグリーンポイントは、歴史上誰も住んだことがない場所ゆえ有頂天になったのだが、実はひどい土壌汚染があることが発覚して去ったのだとのメカス自身の話(『グリーンポイントからの手紙』では、そこで大はしゃぎし、若者がノラ・ジョーンズを聴きながら可愛いなあ、結婚したいなあと叫んでいた)。魂と肉体の関係についていかにも熱く主張する人たち。アル中とヤク中の男の話。リスボンの大樹を象のようだ馬のたてがみのようだと撫でる男たち。ある男が十代の女性と結婚し、子どもをつくり、可愛がる様子(「その1年後」というキャプションが出ると観客席から笑いが起きる)。トカゲを撮りながらリトアニアの森のことを語るメカスの声。マリー・メンケンの小さくささやかな映画の素晴らしさについて語るメカス。ピラネージの画集を観て感嘆する人たち。「ヴィリニュス・ジャズ・フェスティヴァル」のTシャツ(欲しい!)を着ている息子セバスチャン・メカス。酔っぱらいながらナポリの歌を聴いて難癖をつけ続ける人たち。ジョルダーノ・ブルーノにゆかりのある地で作られたワインを開けるメカスたち。

そして最後は、メカスが幼少時に寝そべり、歩き回り、自分だけの道を見つけたリトアニアの森に思いを馳せる。希望と、もう戻れないのだという哀しさが同居する。しかし、千夜一夜の息遣いやフラグメンツこそが、メカスにとっても、それを観るこちらにとっても、ざわざわとした森ではなかったか。

映画を観る前に、外苑前の「ときの忘れもの」に立ち寄り、『ジョナス・メカス写真展』を観た。ここも7年前のメカス来日以来だが、道を覚えていた。以前からの、16mmフィルムの数コマをブローアップしたプリント群であり、今回展示の多くは新作である。やはり、滲みや粒子や色の飽和や動きのブレが、森のような世界での記憶の痕跡と化しているのだった。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
『NYタイムス』によるレビュー