ニコンは、ニコンサロンにおいて開催が決まっていた写真展の中止を、写真家・安世鴻氏に一方的に通告し、地裁と高裁の命令に従って、不承不承開いた。さらに、その後に及んでも、大阪ニコンサロンにおいても写真展は開催されないままであった。
新藤健一編『検証・ニコン慰安婦写真展中止事件』(産学社、2012年)は、 その経緯を日本語・韓国語の両方でまとめた冊子である。
一読すると、事態の異常さが差し迫ってくる。
多くの問題がある。歴史修正主義。圧力に容易に屈する表現の場。事なかれ主義。議論の不透明性。
ニコンは、中止を決めた理由をいまだまともに説明していない。あるとすれば、「慰安婦」という歴史の「政治性」を指摘したのみである。しかし、本書でも多く指摘されているように、「政治性」をまとわない表現はあり得ない。あるいは、人間社会におけるすべての存在は「政治性」を身にまとう(ミシェル・フーコーを思い出すまでもなく)。
これを問題とすべき「政治性」とするならば、如何に多くの写真表現が「政治性」と無縁であるというのか。たとえば戦争や迫害された人々を追った写真が「報道写真」であって「写真表現」でないということはないし、逆に言えば、日常の人々を撮った「写真表現」であっても、「報道写真」でありうる。「政治性」と、抽象的な「写真表現」とは、独立の軸ではない。
そして、安世鴻氏の写真は、特定の「政治活動」を行うための手段として、「写真表現」を装って提示されたのでもない。それは鑑賞者たるわたしも感じたことであるし、もとより、選考委員会がその観点から写真展開催を決めたものであった。
おそらくは圧力を受けての判断なのだろう。それが誰からのものであったかについて、根拠は示されていないものの、本書における推測は、ある程度の説得力を持つように思える。
また、「ニコンムラ」という指摘も重要である。写真業界にあっては、ニコンは権威であり、そのためにこの問題に沈黙する者が多いというのだ。そうだとすれば、影響は今回の件にとどまらない。
「今回の写真展だけに限らず、映像でも文字でも絵画でも、ある表現行為や場所をはく奪されるような事態に対して、表現活動に携わる、特に職業人が、「黙っている」「何も言わない」ということだけは絶対にできない。
「厄介になりそうだな」
「できれば関わりたくないな」
そんな意識が自らの心と身体の中に芽生えてくるとき、そこで踏ん張らなければ、その連鎖の根は断つことはできない。いったん「引く」と、自らも周りも少しずつ足なみをそろえて引いていくのではないか。それを断ち切るためにも、新宿ニコンサロン写真展で何が起きたのかを知り、そして、表現行為に関わる様々な”ネガティブな現象”を注視しなければならない。」
(綿井健陽氏)
●参照
○安世鴻『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』
○安世鴻『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』第2弾、安世鴻×鄭南求×李康澤
○『科学の眼 ニコン』
○陸川『南京!南京!』
○金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』
○朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
○沖縄戦に関するドキュメンタリー3本 『兵士たちの戦争』、『未決・沖縄戦』、『証言 集団自決』
○オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦
○『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
○新崎盛暉氏の講演
○新崎盛暉『沖縄からの問い』