Sightsong

自縄自縛日記

着陸前が苦手

2012-11-16 07:41:38 | もろもろ

飛行機に乗るのは好きなのだが、着陸前に降下を始める頃の気圧変化が苦手である。何故か、離陸後は何ともない。国内線は割と平気で国際線が要注意なのは、飛行機の高度の違いだろうか。

鼻を指でつまんで息を吹きこむと、両耳の気圧差が解放される。この耳抜きも、体調によってできたりできなかったりする。一度油断して耳が痛くなると、もうあとは無理矢理欠伸をしたり唾を呑みこんだりとひたすら努力を続けるが、なかなかうまくいかない。

昔、はじめて他国に行ったときのこと。ネパールからタイに戻る機内で、突然、飛行機の轟音が聞こえなくなった。何か変事かと吃驚して周りを見たが、きょろきょろしているのは自分だけだった。治す方法も知らず、乗り換えのバンコクでは人の話をほとんど聴きとることができなかった。(しばらくして何気なく欠伸をしたらべきべきべきという音がして開通した。)

今では降下時には先手を打つようにしているので、大ごとには至らないが、それでも悩みである。耳抜き以外にいい方法はないものか。


リヤドが近い


ティムール・ベクマンベトフ『リンカーン/秘密の書』

2012-11-16 01:21:09 | 北米

香港からリヤドに向かう機内で、ティムール・ベクマンベトフ『リンカーン/秘密の書』(2012年)を観た。

19世紀、アメリカ。若き日のエイブラハム・リンカーンは、吸血鬼に母を殺される(勿論、史実とは異なる)。復讐を誓ったリンカーンは、実は吸血鬼がひとりではないことを知り、吸血鬼ハンターとなる。そして南北戦争が勃発、リンカーンが率いる北軍は、吸血鬼の多い南軍を倒していく。

まあ普通に面白い映画ではあるが、何しろストーリーにまったくひねりがないどころか、設定にも話の展開にも相当にムリがある。150年前のこととはいえ、南軍の戦死者を勝手に吸血鬼にしては駄目だろう。フランシス・フォード・コッポラ『ドラキュラ』や、トビー・フーパー『スペースバンパイア』などの吸血鬼映画の足許にも及ばない作品。山本迪夫『血を吸う薔薇』はしょうもなかったが、それでも、手探りの意がギンギンに感じられるだけ、こんなものより遥かにマシだ。

●参照
山本迪夫『血を吸う薔薇』


レオス・カラックス『Holy Moters』

2012-11-16 00:40:48 | ヨーロッパ

香港からの帰途、機内で、レオス・カラックス『Holy Moters』(2012年)を観る。

自分にとっては、『ポンヌフの恋人』(1991年)を日本公開初日に観に行って以来のカラックス作品だ(その後に『ポーラX』があるが、観ていない)。主演はカラックス作品でお馴染みのドニ・ラヴァン、その彼ももう50歳を越している。

オスカー(ラヴァン)は、毎朝、異様に長いリムジンに乗って仕事に出かける。1日のアポイントはぎっしり入っている。仕事とは、何者かに化け、奇妙なシチュエーションでの行動をなすこと。老婆と化して物乞いをしたり、野人と化して墓地の花を喰らいつつ、撮影中のモデルをさらったり(このとき伊福部昭『ゴジラ』のテーマソングが流れる)、死ぬ間際の老人に化け、愛する女性との別れの言葉を交わしたり、奇怪なコスチュームに身を包んでエロチックなダンスをしたり、銀行家を殺して自らもボディーガードたちに射殺されたり。

誰のための、何を目的とした演技なのか、どこまで真なのか、まるで解らないのだ。

しかし、途中でヒントがある。オスカーが、このように言う。昔カメラは大きかった。それが頭より小さくなって、今では撮っているのかどうかすらわからない、と。

撮影という行為、編集という行為、観客が観るという行為、そのような営みが映画というものだとすれば、もはや、撮影のみならず、視線や主体がどのようなものであってもよいのかもしれない。撮影さえしていなくてもよいのかもしれない。視線に晒されなくてもよいのかもしれない。

これは映画という制度を解体せんとする挑発であるとみた。