細見和之『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』(岩波書店、2011年)を読む。
詩人・金時鐘は、日本占領下の朝鮮半島で生まれ、済州島で皇国少年として育った。日本語しか話せなかった。ところが1945年8月15日、突然の敗戦と、人ごとのような解放を迎える。以来、「壁に爪を立てるように」朝鮮語を学び、済州島蜂起に参加。1948年の「四・三事件」により、虐殺をまぬがれ、日本に密航。
詩を書くことは、おそらくは氏の生存証明であるとともに、受苦のプロセスでもあった。なぜならば、突然ことばを奪われ、自己のことばをゼロから覚えている矢先に、暴力的に祖国を追われ、かつての支配者の国で、支配者のことばをもって、自己をふたたび築き上げなければならなかったからだ。そして、総連という組織に同調しなかったがために、その国において、同胞からさえことばを封じられてきた、詩人。
本書は、金時鐘という詩人が、そのような苛烈な生のなかでこそ、観念と抽象による詩が到達しえない領域として、唯一無二のことばを生みだしていったのだということを示している。ここにいたり、自在に操り、微妙なニュアンスを使い分けることができる母語とは何だろうか、と疑問に思わざるを得ない。金時鐘のことばは、そことは対極に位置するのである。
ここに、ドゥルーズ/ガタリによる「マイナー文学」の指標が引用されている。すなわち、「脱領域化された言語」、「すべてが政治的であること」、「すべてが集団的価値を持つこと」。まさに「マイナー文学」であり、同時に普遍性を持つ金時鐘の詩だという本書の指摘には、納得させられるものがある。
最近のコリアンタウンにおけるレイシストたちの愚かな攻撃と、それに対抗するものとしての反差別の運動。もちろん後者を否定するものではない。だが、根源的に、われわれは何をまもり、何を欲望しているのかという点において、あやうく、逆方向の同調圧力がありうることは否定できないのではないか。金時鐘のいのちを賭けた生存証明の姿を垣間見るとき、そのことを感じてしまう。
「・・・自分は差別と無縁だと思っている「日本人」によって「在日朝鮮人」にたいしてしばしば発せられてきた、「日本人か朝鮮人かというまえに同じ人間ではないか」という語り方は、実際は自明のごとく「日本人」への「同化」を迫るものでしかなかった。」
●参照
○金時鐘『境界の詩 猪飼野詩集/光州詩片』
○『海鳴りのなかを~詩人・金時鐘の60年』
○文京洙『済州島四・三事件』
○『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
○済州島四・三事件と江汀海軍基地問題 入門編
○金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
○金石範『新編「在日」の思想』
○金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
○林海象『大阪ラブ&ソウル』(済州島をルーツとする鶴橋の男の物語)
○藤田綾子『大阪「鶴橋」物語』
○金賛汀『異邦人は君ヶ代丸に乗って』(鶴橋のコリアンタウン形成史)
○鶴橋でホルモン
○野村進『コリアン世界の旅』(済州島と差別)
○新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』(沖縄と済州島)
○知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦『闘争する境界』(沖縄と済州島)
○宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(沖縄と済州島)
○『けーし風』沖縄戦教育特集(金東柱による済州島のルポ)
○加古隆+高木元輝+豊住芳三郎『滄海』(「Nostalgia for Che-ju Island」)
○豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』(「Nostalgia for Che-ju Island」)
○吉増剛造「盲いた黄金の庭」、「まず、木浦Cineをみながら、韓の国とCheju-doのこと」(李静和は済州島出身)
○長島と祝島(2) 練塀の島、祝島(練塀のルーツは済州島にある)
○梁石日『魂の流れゆく果て』