今朝、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』が完結した。
もちろん待ち切れず、7時半からの早い回を観た。テレビドラマがあまり好きでない自分が、毎朝こんなに熱心に観てしまうなんて、小学生のときの『おしん』以来ではなかろうか(たぶん)。出張中も録画していた。
80年代のアイドル全盛期を通過した者に刺さった要因は、小泉今日子や薬師丸ひろ子が、半身をその幻想界に置きつつ、こちらに開かれた世界としてドラマを展開してくれたことだろうね、などと思ってみる。開かれ方はそれだけでなく、突っ込み所満載。過ぎ去った後のテレビは、「こちら側」の記憶なのである。
一方、ぬぐい去ることができない違和感があった。
ひとつは震災の描き方。ドラマには、放射性物質の飛散を恐れる人も、津波で亡くなる人も登場しない。むしろ、それらを徹底して回避していたと言うことができる。そのことの賛否は分かれるかもしれないが、それでは、ドラマ終盤になって、さまざまな週刊誌が「あの人が死ぬ」といった話題で盛り上げていたのは何だったのか。ただの野次馬記事ではないだろう。(※)
もうひとつは、田舎に対する美しすぎる幻想。アキちゃんやユイちゃんの地元では、皆がおのおのの存在を認めつつ、親密なコミュニティを形成している。しかし、自分はどうしても、その集団から排除される者のことを考えてしまう。村八分にされた揚句の悲惨な事件のことを、このドラマと考え合わせてみた人はどれほどいるだろう。
(※) その後、ドラマの舞台になった場所では死者・行方不明者が比較的少なく、ドラマにおいて死者が出るほうがむしろ違和感があるとの指摘をいただいた。確かに、その通りであり、穿ちすぎて乱暴な議論をしてしまったようである。しかし、死の影があまりにも希薄という点は否定できない。
ここではむしろ、津波被害の展開に関するメディアの言説をこそ問題とすべきかもしれない。