崎山多美氏らが主導した『越境広場』誌は、準備号たる第0号を経て、創刊第1号が2015年末に発行された。随分と待っただけに、半年も積んでしまった。
ことばは大事にしなければならない。ここに寄せられた多数のことばをひとつひとつ、反芻してみたい。それにより、善意のパターナリズムは行き場を失うことだろう。
1995年という結節点があった。それを、沖縄の米兵による少女暴行事件、地下鉄サリン事件、阪神大震災というたまたま同じ時期に起きて何かを見出すことができるために、同じ場で論じることが既に暴力となっている。しかしそれはそれとして、中江裕司『ナビィの恋』(1999年)が沖縄において自己同一性の強化のために使われたとする指摘と、同時期の高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』(1998年)がそのイメージを壊していったとの比較には驚かされてしまう。中江映画は必ずしも外部からの視線による欺瞞と断ずることはできないということである。
真喜志勉(TOM MAX)というアーティストの存在。その、あっけらかんとして、「アメリカ」をわがものとした者の佇まいが、追悼文から浮かび上がってくる。「アメリカ」にシビアに向いあい、あるいは拒否を表現し、あるいは斜に構えるという(わたしの)ステレオタイプとは異なる存在である。かれが残した記憶から、沖縄と「アメリカ」との関係に、別の光が当たるようでもある。
そして、沖縄オルタナティブメディアの西脇さんが、ぜひ読むべきだと薦めていた、写真家の石川竜一氏と豊里友行氏との対談。このすれ違いは確かに面白い。沖縄「を」撮るのか、沖縄「で」撮るのか。「沖縄」を意識するのか、しないのか。自覚するのか、しないのか。政治社会のコンテキストはどのようにとらえるのか。シニカルに視るべきではなく、このずれをこそとらえるべきだと思える。そして、紛れもなく、このずれは、豊里氏の執拗な問いかけによって垣間見えてきたものでもあるだろう。
●参照
『越境広場』創刊0号