ナターリヤ・ソコローワ『旅に出る時ほほえみを』(サンリオSF文庫、原著1965年)を読む。
ヨーロッパのある国。主人公の「人間」は、優秀な科学者として国家予算を与えられ、「怪獣」を開発していた。その「怪獣」は、地底を自在に移動でき、人工知能を有していた。それだけでなく、威力の大きな爆弾が装備されているのだった。当然、政府はそれを軍事兵器として使おうと画策する。エリート主義の権力者は、独裁を強めていく。権力者にとって「人間」もエリート仲間であったが、知的に権力の横暴を許すことができない「人間」は、権力に背く。「人間」はとらえられるが、その前に、「怪獣」の軍事利用の芽を摘むことに成功する。
かれは「忘却の刑」に処される。死刑にでもすれば、かれが権力に抗う者たちの英雄として記憶されてしまう。それを嫌った権力は、すべての記録から名前と存在を抹消する。「人間」が、本当に名前を持たない人間と化してしまうのだった。かれは国外に追放され、権力が嫌う東方、すなわち、ソ連の方へと歩いてゆく。
これは、ソ連においてヨーロッパ資本主義を批判した作品の形を取っている。しかし、本質的には、個人の声を封殺する全体主義の恐ろしさを描いたものとなっており、すなわち、批判はソ連自体に向けられたもののように読むことができる。
その意味で、作品としての深さや成熟度はさほどではないものの、イスマイル・カダレ『夢宮殿』(アルバニア、1981年)、ストルガツキー兄弟『滅びの都』(ソ連、1975年)、ミラン・クンデラ『冗談』(チェコ、1967年)などを想起させられる。あるいは、卑劣な小人物の独裁者を描いたものという点で、テンギズ・アブラゼ『懺悔』(グルジア、1984年)という映画をも思い出してしまう。もっと言うと、いまの日本と比べざるを得ない。