環境アセスメント学会で話をしてきた(→リンク)。森林や緑地に関して、温暖化対策(特に京都議定書)という側面から整理したものだ。仕事の延長だが、普段と違って、環境の別フィールドの方々に話をすることはそれほど多くない。今年は、WWFのお誘いで京都の枠について問い直す場で話をしたりと、他にも新鮮な機会をもらって楽しかった(仕事だが)。
大気中の二酸化炭素を吸収・固定するということだけでは、森林の持ついわゆる「多面的機能」(保水とか、生態系の保全とか、心のよりどころとか、景観とか)をカバーすることができない。それは当然だから置いておくとして、その温暖化対策としても、森林はあまりいい位置を与えられていない。
●国内の林業が成立しにくい状況にあって、温暖化対策がそれを後押しできていない(従来の補助金行政のまま)。
●海外の植林事業や森林保全を良い形で後押しするためには、いまの京都議定書は力になっていない(複雑な説明は避けるが、要は、温暖化対策として植林をしたい企業の意志が届かない形)。
●にも関わらず、企業の温暖化対策として、森林のイメージは非常に受けが良い。勿論、批判の多い、木材や炭素を稼ぐためだけの単一林などでなく、場所や状況に応じた植林であることは大前提。
ノーベル平和賞を受賞したIPCCの言う長期的対策も当然必要だが、温暖化対策としての森林保全が後回しになっていることも、もっと騒がれていいことだと考えている(炭素の蓄積装置という単純な考え方をしてはならないが)。それに、「あれ」は、もっとねじれていくことに違いない。
今後の話題として大切なことのひとつは、木を切ったあとの運命を気にすることだ。日本は木造住宅が多いので、森林の2割くらいの炭素が国土の上にある(何年か前に分析した)。これは他国よりもかなり多い。第二の森林として良い評価をしてもいいし、その木材を伐ったに違いない国の状況のことを考えるべきでもある。
●いま: 樹木を伐採した瞬間に、二酸化炭素が大気に放出されると見なされている。途上国で伐採した木材を日本で棄てて燃やしても、その二酸化炭素を排出しているのは途上国と見なされている。
●今後: 本当は伐採後に木造住宅になったり紙になったりして、大気に放出されるのは燃やされたり分解したりするときだから、その行く末をおさえること。木造住宅を長く使うことも、本を捨てないことも、炭素を大気中に放出しないことにつながる。途上国で伐採した木材を野放図に輸入することへの歯止めになるかもしれない。国内の林業再生にとって力になるかもしれない。
ただ、この議論も後回し感がある。
ところで、主催者の方と辺野古の話をした。なぜ、環境アセス法を国自身が破壊することができるのか、という点である。ひとつの原因は、環境保護を責任を持って行う機関がない仕組みになっているからだ、との指摘があった(他ならぬ環境省が抵抗勢力になりえていない)。もし辺野古のアセスを米国が行っていれば、このようなことにはならないに違いない、ということだ。具体的にどこがどうそうなのか、来年のテーマとして調べてみようと思っている。
大気中の二酸化炭素を吸収・固定するということだけでは、森林の持ついわゆる「多面的機能」(保水とか、生態系の保全とか、心のよりどころとか、景観とか)をカバーすることができない。それは当然だから置いておくとして、その温暖化対策としても、森林はあまりいい位置を与えられていない。
●国内の林業が成立しにくい状況にあって、温暖化対策がそれを後押しできていない(従来の補助金行政のまま)。
●海外の植林事業や森林保全を良い形で後押しするためには、いまの京都議定書は力になっていない(複雑な説明は避けるが、要は、温暖化対策として植林をしたい企業の意志が届かない形)。
●にも関わらず、企業の温暖化対策として、森林のイメージは非常に受けが良い。勿論、批判の多い、木材や炭素を稼ぐためだけの単一林などでなく、場所や状況に応じた植林であることは大前提。
ノーベル平和賞を受賞したIPCCの言う長期的対策も当然必要だが、温暖化対策としての森林保全が後回しになっていることも、もっと騒がれていいことだと考えている(炭素の蓄積装置という単純な考え方をしてはならないが)。それに、「あれ」は、もっとねじれていくことに違いない。
今後の話題として大切なことのひとつは、木を切ったあとの運命を気にすることだ。日本は木造住宅が多いので、森林の2割くらいの炭素が国土の上にある(何年か前に分析した)。これは他国よりもかなり多い。第二の森林として良い評価をしてもいいし、その木材を伐ったに違いない国の状況のことを考えるべきでもある。
●いま: 樹木を伐採した瞬間に、二酸化炭素が大気に放出されると見なされている。途上国で伐採した木材を日本で棄てて燃やしても、その二酸化炭素を排出しているのは途上国と見なされている。
●今後: 本当は伐採後に木造住宅になったり紙になったりして、大気に放出されるのは燃やされたり分解したりするときだから、その行く末をおさえること。木造住宅を長く使うことも、本を捨てないことも、炭素を大気中に放出しないことにつながる。途上国で伐採した木材を野放図に輸入することへの歯止めになるかもしれない。国内の林業再生にとって力になるかもしれない。
ただ、この議論も後回し感がある。
ところで、主催者の方と辺野古の話をした。なぜ、環境アセス法を国自身が破壊することができるのか、という点である。ひとつの原因は、環境保護を責任を持って行う機関がない仕組みになっているからだ、との指摘があった(他ならぬ環境省が抵抗勢力になりえていない)。もし辺野古のアセスを米国が行っていれば、このようなことにはならないに違いない、ということだ。具体的にどこがどうそうなのか、来年のテーマとして調べてみようと思っている。
森林問題はとても興味があり行きたかったのですが、遠すぎてあきらめました。C.W,ニコルさんの森が私の田舎の近くにありますが、とても素晴らしい森です。
紙の行く末ですが、紙の消費量をおさえなければならない、ということでしょうか。
ニコルさんの森、訪ねてみたいものです。
紙も難しいですね。ひとつの木からひとつの製品ができるわけでないですので(色々組みあわさってバランスが成り立っている)。文化とも関連しているし・・・。使った後に燃やすのか古紙リサイクルにまわすかについても単純ではない(ただ、古本屋さんは環境産業でもあると考えています)。少なくとも、使う紙に、途上国の農作物同様、相応の価値を持たせるべきだろうなと思います。