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自縄自縛日記

ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの

2012-02-12 08:37:49 | 小型映画

ジョナス・メカスの新作『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』(2011年)を観るために、恵比寿写真美術館に駆け付けた。アジア初上映である。メカスの映画の上映に足を運ぶのは、2006年に『グリーンポイントからの手紙』(2004年)を観て以来だ。もはや16mmのボレックスなどではなく、デジタルヴィデオを用いて撮られている。おそらくは『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』(2000年)あたりが、メカスのフィルム時代の掉尾を飾った作品ということになるのだろう。

今回の上映にあわせてメカス自身が来日することはなかったが(最近ツイッターで、2005年に来日した際のレセプションにおいて私がメカスに話したことを覚えておられる方を発見して仰天した)、その代わり、アンソロジー・フィルム・アーカイヴズの方2人による上映前の挨拶があった。曰く、何十年も活動しているメカスだが、園作品には難民として苦労した経験が底流として横たわっている。これは『千夜一夜物語』をモチーフにしたもので、輪廻転生や動物との話といったエピソードが入っている。2007年にウェブ上で毎日何かを記録したプロジェクト『365 days project』が成功した翌年、それでは千夜に拡げようとして始めたものだ。メカスならば上映前にコメントを言うことはないだろうね、と。(ところで、彼らの英語は平易なものだったにも関わらず、『千夜一夜物語』の基本的な知識がない方が通訳を務めていて難儀をしていた。これは少なからず失礼だ。)

デジタルヴィデオだからといって、メカスのスタイルはまったく変わらない(もっとも、ボレックスの故障によるフリッカーなどはないが)。手持ちで気の向くままに撮影し、そのフッテージの集積から作品へと抽出する。幕間の、紙に印刷されたタイトルやメッセージも健在である。ずっと観ていると、酔ってしまう。昔、リバイバル上映ではじめて『リトアニアへの旅の追憶』(1971-72年)を観たときの衝撃=メカス体験も、この「酔い」だった。

映画は、確かに『千夜一夜物語』を思わせる雰囲気ではじまる。マリーナ・アブラモヴィッチが恋人と別れてどん底だと毒づき続ける顔の超アップ、そして、さらに悲惨な話がある、として、突然落馬して血だらけになった女性の紹介へと進む。しかしその後は、メカスの心臓の鼓動のようにさまざまな時空間があらわれる。

オノ・ヨーコと踊るメカス。以前に住んだグリーンポイントは、歴史上誰も住んだことがない場所ゆえ有頂天になったのだが、実はひどい土壌汚染があることが発覚して去ったのだとのメカス自身の話(『グリーンポイントからの手紙』では、そこで大はしゃぎし、若者がノラ・ジョーンズを聴きながら可愛いなあ、結婚したいなあと叫んでいた)。魂と肉体の関係についていかにも熱く主張する人たち。アル中とヤク中の男の話。リスボンの大樹を象のようだ馬のたてがみのようだと撫でる男たち。ある男が十代の女性と結婚し、子どもをつくり、可愛がる様子(「その1年後」というキャプションが出ると観客席から笑いが起きる)。トカゲを撮りながらリトアニアの森のことを語るメカスの声。マリー・メンケンの小さくささやかな映画の素晴らしさについて語るメカス。ピラネージの画集を観て感嘆する人たち。「ヴィリニュス・ジャズ・フェスティヴァル」のTシャツ(欲しい!)を着ている息子セバスチャン・メカス。酔っぱらいながらナポリの歌を聴いて難癖をつけ続ける人たち。ジョルダーノ・ブルーノにゆかりのある地で作られたワインを開けるメカスたち。

そして最後は、メカスが幼少時に寝そべり、歩き回り、自分だけの道を見つけたリトアニアの森に思いを馳せる。希望と、もう戻れないのだという哀しさが同居する。しかし、千夜一夜の息遣いやフラグメンツこそが、メカスにとっても、それを観るこちらにとっても、ざわざわとした森ではなかったか。

映画を観る前に、外苑前の「ときの忘れもの」に立ち寄り、『ジョナス・メカス写真展』を観た。ここも7年前のメカス来日以来だが、道を覚えていた。以前からの、16mmフィルムの数コマをブローアップしたプリント群であり、今回展示の多くは新作である。やはり、滲みや粒子や色の飽和や動きのブレが、森のような世界での記憶の痕跡と化しているのだった。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
『NYタイムス』によるレビュー


澤地久枝『密約』と千野皓司『密約』

2012-02-11 13:27:36 | 沖縄

澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫、原著1978年)を読む。編集者のSさんに早く読むべきだと促されたこともあり、また、TBSドラマ『運命の人』が始まったこともあり(録画するばかりでまだまったく観ていない)、早く小説やドラマでないルポを読んでおきたかったのである。

沖縄の施政権返還を巡っては、さまざまな密約がある。そのひとつが、返還後も有事の際に核兵器を持ちこんでよいとするもので、佐藤・ニクソン間で若泉敬が動いたことが知られている。また、本書の主題であり、かつ当時「外務省機密漏洩事件」として裁判となったもとの密約が、沖縄の土地の原状回復費に関する密約である。

返還に際して、地権者の土地の原状回復費400万ドルについて、米国が支払わないとの姿勢を示した。これに対し、佐藤栄作政権と外務省は、その分を日本が肩がわりしながらも他の支払いに紛れ込ませ、その負担を隠蔽しようとした。毎日新聞記者の西山太吉氏は、外務省事務官の蓮見喜久子氏に個人的に依頼して密約関連文書を入手、記事のネタとした。これが発覚したのは、社会党(当時)の横路孝弘衆議院議員が佐藤政権を追求する際に、文書の存在を明らかにしてしまったことだった。蓮見氏が警察に出頭、国家公務員法違反(機密漏洩の罪)とされ、一方の西山氏は国家公務員法(そそのかしの罪)に問われた。

裁判は、密約外交を行う国家のあり方や国民の「知る権利」についてよりも、ほとんどは西山氏・蓮見氏の「特別な関係」にシフトしていった。地裁、西山氏無罪、蓮見氏有罪。検察の控訴による高裁、西山氏有罪。最高裁、上告を棄却。西山氏については、取材時のモラルが問題とされた。その後、民主党政権になり政府でも問題再燃、外務省では「広義の密約」があったと結論付けている。西山氏は現在も密約文書の開示を求めて訴えており、問題はまだまだ終わっていない。

本書は、国会において、如何に佐藤首相、福田赳夫外相といった政治家や外務省官僚たちが、のらりくらりと問題をはぐらかしていたのか、また、一連の裁判において、如何に本来裁かれるべき問題が健忘され、「下半身問題」にすりかえられてしまったのかを描いている。濃密なルポである。

著者の澤地氏は、「秘密」なるものに根本的な疑問を呈している。行政府が定める国家機密は、検察の論理においては「相手国と相対立する利害があることを前提としている」とされているが、この件は、国民の決定権や知る権利をまったく無視して国民の税金を使ったものであるから、「自国民の利害と相対立する部分をふくみ、一政府の対面と相手国の利益を守るためのものではなかったろうか」と書いているのである。このことは、機密漏洩問題がウィキリークスの活動によって出てくる現在でも変わらない。

ここで引用されている大島渚の発言は面白い。

「知る権利などというのは自明のことだ。極秘資料のスッパ抜きに次ぐスッパ抜きを!今こそ日本中を、スッパ抜きした極秘資料をもってあふれかえさせること。極秘資料一つ入手できない政治家は政治家でないこと新聞記者は新聞記者でないことを確認しよう」

また、最近、『運命の人』での自身の描かれ方に激怒しているらしきナベツネこと渡辺恒雄・読売新聞G本社会長が、読売新聞解説部長当時、国家機密も当然スクープの対象であると述べたとの記述もある。

ついでに、千野皓司『密約 外務省機密漏洩事件』(1978年)を観る。もともとはテレビ朝日のドラマとして製作されたものであり、2010年にはリバイバル上映もされている。ほぼ澤地氏の原作をなぞったような形となっており、いかにもサスペンスドラマ風のつくりや画像ではあるが、それなりに面白い。

ここでは、澤地氏の考えは、他の新聞記者に取材の思いを語るかたちによって表現している。蓮見氏が裁判において権力に都合のよい女性を演じ、その一方で週刊誌にあけすけに告白し続けた奇妙な様子も再現している。西山氏の新聞社は、明らかに竹橋の毎日新聞社で撮影されているが(窓越しに国立近代美術館の方が見える)、毎日は協力したのだろうか。

名前は以下のように変えられている。

西山太吉 → 石山太一
蓮見喜久子 → 筈見絹子
澤地久枝 → 澤井久代
佐藤栄作 → 加藤首相
横路孝弘 → 横地衆議院議員
福田赳夫 → 徳田外相
安川審議官 → 松川審議官
吉野文六 → 吉川外務省アメリカ局長
スナイダー → メイヤー駐日米大使
ロジャース → ドジャース米国務長官
毎日新聞 → 東日新聞
琉球新報+沖縄タイムス → 琉球タイムス
週刊新潮 → 週刊新時代

西山氏役に北村和夫、蓮見氏役に吉行和子、澤地氏役に大空真弓。吉行和子は大島渚『愛の亡霊』と同じ年の出演、何かスキャンダラスなイメージをかぶせたかったのでもあろうか。澤地氏はともかく、主役ふたりはいわゆる美男・美女ではない。それだけでも『運命の人』よりも本当ぽい?


鈴木志郎康『結局、極私的ラディカリズムなんだ』

2012-02-08 23:48:09 | 小型映画

鈴木志郎康『結局、極私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田、2011年)を読む。極めて私的な、極私的な、映画作家によるエッセイ集である。

個人映画は、その立ち上がりや存在の場を含めてのものである、という。そして詩は、ことばを受けとめるものではなく、ことばの立ち上がりに能動的に自らを重ね合わせようとすることだ、という。そうでなければ、制度にのらないことばを作りだし、発し、発せられたあとのことばの変貌にたじろぎ、変ってしまったことばを受けとめる者、すなわち個人、の営為からは離れていってしまう。従って、そのような個人は、制度や権威とは正反対に位置する。

ジョナス・メカス『リトアニアへの旅の追憶』において、母親と水とが存在の源として並列に存在しているとの見方。『ウォールデン』におけるメカスのカメラワークを心臓の鼓動だとすること。木村伊兵衛の写真における、人や動物との交感。つげ義春の、外部からの絶えざる逃亡。刺戟的な論考が多い。

私の持っている『ウォールデン』は、6本のリールのうち5本強しか入っていない。しかしこれによると、6本目の冒頭のところに印象的な場面があるという。やはり最後まで観なければ・・・。

●参照
鈴木志郎康『隠喩の手』
鈴木志郎康『日没の印象』
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』


山口二郎『政権交代とは何だったのか』

2012-02-07 23:57:33 | 政治

山口二郎『政権交代とは何だったのか』(岩波新書、2012年)を読む。

既得権益にがんじがらめになり、自分たちだけの世界を脱却できなかった自民党政権が倒れたとき(2009年)、どれだけそれが嬉しいことだったか。ところが、民主党政権になり、清新なヴィジョンを掲げて登場した鳩山首相、正論をもって突きあげる力を期待した菅首相ともに、政・官・財の守旧的な力により無力化し、さらにはメディアを含めた無責任の力によって引きずりおろされてしまった(私はいまだにこの2人のことは保留条件付きではあるものの高く評価している)。そして現在は、本当に政権交代があったのかどうか、忘れてしまうような有り様である。

何が問題だったのか。本書は、著者が民主党ブレーンであっただけに、おそらくは苦しい思いとともに、いくつかの答えを示している。それは例えば、政権交代や政官の統治スキーム転換という手段自体が目的化してしまっていたこと。マニフェストが議論によって積み上げたものではなかったために、政治家内部に血肉化したヴィジョンとはなっていなかったこと。マニフェストを実現化するための手段や、マニフェスト(もとより全てを実現することは不可能)の優先度について練りきれていなかったこと。政治主導を意識するあまりに自縄自縛になり、官の力を使うことができなかったこと。ヴィジョンの共有、その実現化が「絵に描いた餅」になっていた、というわけである。

その一方で、官僚の抵抗が激しかったことも事実としてあったようだ。鳩山首相が普天間基地の県外移設を打ち出したとき(勿論、このことを「寝た子を起こした思いつき」とする言説には、私はまったく共感できない)、外務官僚たちは、米国政府に対して、柔軟になるな、譲歩するなと働きかけ続けていたという。また、「核なき世界」を唱えたオバマ米大統領が原爆投下を謝罪するために広島、長崎を訪問しようとしたとき、謝罪はもとより訪問自体も「時期尚早」だという見解を伝えたのだという。激しい怒りを覚えざるを得ないエピソードである。

「日米安保は、いわば現代の「國體」である。そして外務省、防衛省の官僚は、國體護持の担い手である。日本国民の意思よりも、アメリカとの関係の固定化に関心があるのだから、極めてゆがんだ國體である。こうしたイデオロギーに凝り固まった外務省を使いながらアメリカとの外交交渉を進めなければならなかったのだから、鳩山政権の弱体は一層深刻であった。」

この力学は、菅政権の脱原発の方針を巡ってもみられた。浜岡原発を止めたあとのバッシングはすさまじく、また、菅首相が福島第一原発の冷却水を止めたという虚偽情報が流れたが、それも官僚による策謀であったという。著者曰く、民主党の偽メール事件の際には全メディアがこぞってそれを信じた議員を非難したにも関わらず(のちに議員は自殺)、この虚偽情報については責任追及の声はメディアからは出てこない。

そういうものなのだろう。

それでは、私たちはどうすべきなのか。著者は、矛盾した政策を強弁する「強いリーダー」を支持してしまうような、あるいは、1か0かで判断してしまうような、有権者の未成熟をも問題とする。民主主義を見切ったように冷笑するのではなく、能動的に政治に関与すべきだということである。また、「より悪くないほうを選ぶ」ような、大人の現実主義を身に付けるべきだということでもある。

確かに、本書のオビにあるように、絶望して無関心を決め込んでは、せっかくの政権交代から何も得られないことになる。もっとも、やはり「現実的」でなく「調整能力」のない民主党を見限り、また旧来の政権与党支持に戻ったとしても、遠からずその愚かさに気付くであろうから、それも悪くないのかもしれない。著者は、「単なる批判政党」になった自民党の今後について、3つの可能性を提示している。おそらく(1)はムリ、(2)の舵取りもムリ、(3)はロクなことにならない。

(1) 小泉改革以前の穏健保守政党に戻り、国民各層の生活に配慮する路線
(2) グローバル化の流れに掉さし、経済界の利益を代表する路線
(3) 右派的ナショナリズムを追求するイデオロギー政党の道

●参照
菅原琢『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』


『開拓者たち』

2012-02-07 01:02:06 | 中国・台湾

NHK・BSプレミアムで放送されたテレビドラマ『開拓者たち』全4回を観る。

満蒙開拓団」として満洲(満州)に渡った人びと。黒龍江省に入植して成功するが、それは当然ながら、侵略に他ならなかった。1945年8月、ソ連の侵攻とともに土地を棄て、命からがら長い逃避行に出る。ある者はソ連によってシベリアに送られ、ある者は中国で「留用」され、ある者は中国撫順戦犯収容所で「教育」される。日本に戻っても、もとより口減らしゆえ、居場所はない。そして、満洲とは比べものにならない条件の地・栃木県那須町を新たに開拓する。

実体験者たちへのインタビューが時折挿入されるスタイルとなっており、そのため迫真性がある(最後に主演女優が、主演女優として碑に花を捧げる場面は、まるでスティーヴン・スピルバーグ『シンドラーのリスト』のようでやり過ぎだが)。想像しかできないが、おそらく想像を絶する体験だったのだろう。良いドラマだ。

一方で、違和感が拭いきれない。確かに、侵略という罪を体現する登場人物は何人も登場する。開拓団のなかには、土地を奪われた「匪賊」を拷問して殺す男がいて、戦犯収容所からの釈放後、彼は贖罪のために生きることになっている。それだけでなく、多くの開拓民たちが中国人から憎しみの目で睨まれ、それに抗することはできない。しかし、それはドラマ上のアリバイであり、概ね「こちら側」の日本人たちは善良で、自らの間接的な罪を受け入れ、それでも希望を捨てずに苦労を続けるという設定である。(念のため、そうでなかった筈だと言っているのではない。ドラマの力学のことを考えているのである。)

ドラマの冒頭、主演女優は、大震災の被災者たちに向けて告げる。このように、悲しみと苦しみを乗りこえてきた日本人たちがいたのです、と。まるで「がんばろう日本」のようだ。何かが違う。

●参照
小林英夫『<満洲>の歴史』
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
林真理子『RURIKO』
四方田犬彦・晏妮編『ポスト満洲映画論』
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』(満洲で土地を奪った人びとが日本で開拓した土地を奪われるという反転)
江成常夫『昭和史のかたち』、『霊魂を撮る眼~写真家・江成常夫の戦跡巡礼~』
(偽満洲国の記録)


高良勉『魂振り』

2012-02-05 19:35:52 | 沖縄

高良勉『魂振り 琉球文化・芸術論』(未來社、2011年)を読む。

本書は、沖縄の詩人による文化論・芸術論である。そのアイデンティティは、常に沖縄、琉球弧の基底からの独自性にある。

例えば、「文化遺伝子」という概念を提唱する。文化は、それを祖先から内奥で絶えず引き継いできたものであり、それを文化遺伝子と呼ぼうという発想である。すなわち、同一化のベクトルたる「日琉同祖論」を否定し(柳田國男伊波普猷折口信夫)、そのうえで、「沖縄学」の再改革が必要なのだとする。この概念そのものは確立されたものというよりも、おそらくは主張である。しかし、かつて「日鮮同祖論」や「日琉同祖論」が帝国の活動にリンクしていったことを思い出すなら、これは文化や血の混淆という結果論を飛び越え、それぞれの場における権力の臭いを霧消させる力を持っているように思える。これが排他ではないことは、本書後半において書かれているように、アイヌ、サハリン、韓国、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、ブラジルとのつながりを希求していることからも理解できる。

新川明による本書書評(『未来』2011年10月)では、以下のように、このメッセージが、存在者各々の存在自体を浮き彫りにするのだとある。

「・・・自らの生存様式や意識の態様も「文化」そのものであると考えるとき、この概念が放射するメッセージが「人類文化の原種」という自己規定とあわせて無限のイマジネーションをかき立てずにはおかないのも事実である。」

裏返せば、ヤマトゥなるものへの不信がある。著者が身を置くのは、当然ながら、ヤマトゥという帝国からみればマージナルな位置とならざるを得なかった場であり、久米島事件における住民・朝鮮人虐殺事件、さらに遡って、琉球侵略、アイヌ侵略などを睥睨して「ウソと無恥の日本文化・思想」と断言している。勿論、すべて事実として、日本人(私)は受けとめ、応答しなければならないわけだが、現状は正反対である。すなわち、取るに足らぬものとして受け止めず、あるいは聞かなかったこととして、決して応答はしない。

文化論はもともとが短いコラムであって少し物足りないが、やはり面白い。

安谷屋正義の先鋭な抽象画は、私も沖縄県立博物館・美術館ではじめて目にして魅かれたのだったが(>> リンク)、ここでは、琉球弧からの垂直方向への自立の決意と孤独感と表現し、痛々しくも感動的であるとしている。さすがの言葉の力である。

宮良瑛子の「社会性の強い」作品(私はアイヌに捧げた作品しか観たことがない >> リンク)について、古臭さを指摘しつつも、あらためて時代の証言として発見される厚みと、さらなる抽象への飛翔を観察している。

岡本太郎久高島の祭祀イザイホー(1966年)を観察するにあたってさまざまな禁忌を犯したことは(>> リンク)、沖縄では多くのひとが語り継いでいることだと思うのだが、 それで彼が掴んだものとタブー侵犯との関連に想いを馳せている。

その次のイザイホー(1978年)を執念をもって記録した比嘉康雄については、久高島の「母性原理」にこだわっていたことを書いている。同様に久高島の母系社会を指摘した吉本隆明『共同幻想論』(1968年)よりも後の活動であるが、本書には、その影響は考察されていない。吉本の南島論の影響が沖縄においていかばかりのものだったか、知りたいところだ。ところで著者は、比嘉康雄が2000年に亡くなる1週間ほど前、小熊英二の講演会を一緒に聴き、それぞれの島々の伝統を調べ上げるべきだと話しあっていたのだという。これはまさに、『単一民族神話の起源』(1995年)(>> リンク)をはじめとする研究成果からの触発であったのだろう。

比嘉豊光『赤いゴーヤー』(>> リンク)の書評では、その写真に、「視線の低さ、柔軟さ、やさしさ」を見出している。これなどは同胞でなくては書くことができないものではないか。私などは時代性と先鋭性ばかりしか見ることができなかった。

森口豁写真展によせては、「ヤマト人としての責任を自覚し自問自答してやまない」信念を評価し、そこにあるのは「沖縄問題」というよりも普遍的な「日本問題」「差別問題」「人間問題」なのだと評価している。

まだまだ挙げきれないほど、さまざまな思索の種が本書には撒かれている。その中には、新聞だけでなく、『けーし風』『アフンルパル通信』といった草の根的に固く存在する場で公表されたものも少なくない(そういえば、駒込の「琉球センター・どぅたっち」で、高良さんは、なぜここに『けーし風』を置いていないのかと憤慨されていたとか)。今後、別の書『言振り』も出されるのだという。楽しみだ。

●本書で紹介されたもの
安谷屋正義
宮良瑛子
岡本太郎『沖縄文化論』
比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』
比嘉豊光『赤いゴーヤー』 
森口豁『ひめゆり戦史』
森口豁『最後の学徒兵』
森口豁『子乞い』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
世界臨時増刊『沖縄戦と「集団自決」』
野中広務+辛淑玉『差別と日本人』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』

●参照
小熊英二『単一民族神話の起源』
尹健次『民族幻想の蹉跌』
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
柳田國男『海南小記』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
伊波普猷『古琉球』
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
屋嘉比収『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
西銘圭蔵『沖縄をめぐる百年の思想』
戸邊秀明「「方言論争」再考」 琉球・沖縄研究所


アーヴィング・ペン、ジェームズ・ウェリング『WYETH』

2012-02-05 09:42:51 | 北米

六本木のタカ・イシイギャラリーで、アーヴィング・ペンの肖像写真群を展示している。ジャンルのパイオニア的な存在であることもあって、被写体との関係にまだ文脈がないような印象で面白い。ただ、ここの展示方法には工夫が必要である。有名人のポートレイトなのであるから、何処の誰兵衛ということくらい表示しなければならないのではないか(クリスチャン・ディオールの顔なんて知らないよ)。

ジャズファン的には、ディジー・ガレスピーの姿を観ることができたのは嬉しかった。

同じ建物のワコウ・ワークス・オブ・アートでは、ジェームズ・ウェリングがかつてアンドリュー・ワイエスの描いた場所を訪れ、ワイエス的にそれらを撮影した作品群『WYETH』を展示していた。ワイエスの作品は自分も好きだったのだが、あまりにも痛く、寒いため、作品集も手放してしまった。この写真もまさにそのアウラを纏っている。井戸の水はキンキンに冷えた硬水のようであり、もし似たように「硬気」という言葉があるのだとすれば、感じられるアウラはそれである。ドキュメントでも真似でもない、同じ場を身体的に共有するというユニークな作品だと思った。

●参照
「まなざし」とアーヴィング・ペン『ダオメ』


石川真生『日の丸を視る目』、『FENCES, OKINAWA』、『港町エレジー』

2012-02-05 08:32:39 | 沖縄

石川真生の写真展が都内と横浜で4つも開かれている。まずは都内での3つを梯子した。

■ 『日の丸を視る目』(zen foto gallery)

日本や韓国、台湾で、日の丸を使って己を表現してもらい、それを撮る作品群である。昨年未來社から出されたその写真集を書店で見たとき、これはいくらなんでもヤバすぎると慄いてしまったものだ。

改めて1点ずつに向かい合ってみると、それらは、表現のぎりぎりさという意味ではキワモノであり、かつ、浅いウケ狙いではないという意味ではキワモノでない。昨年亡くなった広島の語り部・沼田鈴子さんは、日の丸に平和を願う言葉を書きつけてレンズに見せている。侵略の記憶を持つ人・継ぐ人は、足で踏んだり、息苦しさの示さんがために自分の顔を日の丸テルテル坊主にしたり。右翼はオーソドックスに掲げる。そして写真家自身は、自らの人工肛門を表現している。いやこれは、凄い地点に来てしまっている。

石川さんが在廊していたので、サインをいただきながら少し話をした。

「いつもブログ読んでますよ」
「あら~覗いてたの?」
「ぼくのブログ記事にリンクを張っていただいたこともありましたよ」
「あら~じゃあつながってたのね」

ところで、これらはデジタルプリントではあるが丁寧に仕上げてあり、原版はいまもフィルムなのだという。鈴木邦男さんが絶賛していたと聞いたと振ってみると、何と、既にそのふたりで対談したテレビ番組の収録を済ませ、TBSニュースバードで放送予定だとのこと(2月13日、PM3-)。夕方のトークショーは下ネタだけだから楽しみにね、と言われ、ほくほくしながらギャラリーを後にした。

■ 『FENCES, OKINAWA』(新宿ニコンサロン)

「さがみはら写真賞」の受賞記念。常に米軍という異物と隣り合わせにある沖縄。それは視える存在でもあり、風景と化している存在でもある。辺野古、嘉手納、やんばるの北部訓練場(よく入れた)、普天間、米兵相手の飲み屋、フィリピンパブ。暴力と温かさと、権力と日常と、制度と性とが分割不可能な状況を撮っているように思える。

2000年代初頭の辺野古・キャンプシュワブとの境界。まだ鉄条網は簡素なもので、米兵はひょいと跨いで越境している(どうしても、犯罪的に純真を決め込んだ中江祐司『ホテル・ハイビスカス』を思い出してしまう)。このあと鉄条網は強固なものとなり、さらには本当のフェンスと化してしまった。さらにこれを観る前に、米国が辺野古基地建設中止との報道、どう捉えていいのかまだ判然としない。

■ 『港町エレジー』(Photographer's Gallery)

写真家が沖縄の港町で「あーまん」という飲み屋をやっていたころの作品群(1983-86年)。タコ部屋のような家に寝泊まりするおっさんたちは、芸人よろしくユニークで、押し出しが強い。表情の人間臭さが並ではないのだ。ここまで相手の懐に入りこみ、おっさん達の「男性」をずるずる引き出すことができるのは、石川真生という、やはり人間臭い「女性」だからだよな・・・なんて思っていたら、その後のトークショーを聴いて吃驚(内容省略)。これでは誰も敵わないはずだ。

●参照
石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』


高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント

2012-02-02 17:40:20 | 環境・自然

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)を読む。

著者の語り口は平易にして、既に認識していることが多くとも、本質的な括りを行っている。福島や沖縄を「犠牲のシステム」と呼ぶことも、こちらの気持ちを貫くものだ。何が「犠牲」か。福島については言うまでもなく被曝の危険(それは、被曝の事実と化した)であり、沖縄については、基地の負担・危険、また他者を殺める加害者と化すことの強制である。

重要な点のひとつは、原発や基地の見返りとしてオカネを得ていることへの視線だろう。しかしそれは結果的にそのような構造にしてしまったということであって、「犠牲」となる当事者自らが望んだものではない。原発の招致行動やそれを可能にした民主主義(多数決主義)があったことは事実とは言え、その前の圧倒的な権力差を忘れてはならない。原発の「絶対安全」とのウソや、原発や基地を拒否すればさらなる権力差が生まれるのではないかとの恐怖を明らかに利用しての「犠牲のシステム」構築であったのだ。ここには、著者が『戦後責任論』で説いたような他者との<応答>などなく、徹底的に非対称である。

さらには、「天罰」論にも踏み込んでいる。石原慎太郎の暴言以前に、関東大震災の後にも同様の言説はあったのだという。著者が指摘するのは、仮に「犠牲者」を含む日本人の所業が「天罰」に値するものであったとしても、その「天罰」を受ける者が既に色分けされていたのだということだ。誰に「犠牲者」を定める権利があるのか、それを定めてきた為政者は決して「犠牲者」にならないのではないか、と。ましてや、「犠牲」によってその恩恵を受ける者が、その「犠牲者」を讃えて「犠牲のシステム」への視線を回避させるようなことはあってはならないことではないか、と。

「・・・関東大震災は天罰だった、東日本大震災は天罰だった、長崎原爆は天恵だったという話にするなら、自分個人にとって出来事がどういう意味をもつのかという次元をはるかに超えてしまう。そうした出来事を客観的に意味づけ、そこで死んだ多くの人々、一人ひとりみな違っていた人々を人括りにして、自分から一方的に彼ら彼女らへその死の意味を押しつけるかたちになってしまう。そこには大きな問題があるということを確認しておきたい。」

すべての思考と判断とを停止し、権力を内包する物語をのみ正統とするのではなく、<マルチチュード>的に存在を示すこと。昨年から霞が関に居ることによって存在を主張し続ける「脱原発テント」は、まさにそれなのだろう。辺野古のテントや、高江のテントや、上関の小屋や、キャンベラの「テント・エンバシー」のように。

昨日初めてお邪魔した「脱原発テント」では、そこにおられた方から興味深い話を聞いた。大飯原発と川内原発に使われている部品が、コストダウンのため、1個のステンレス製から5個の鋳物を溶接したものに変えられている。安全を左右する部品であり、ことは重大である、と。これは確認しなければならない。

いつも愛読しているブログ「隙だらけ好きだらけ日記」の永田浩三さんが、同じいま、「脱原発テント」を訪れ、同じ本を読んでおられた(>> リンク)。こういうシンクロニシティも<マルチチュード>的だと思いたい。

 

●参照
高橋哲哉『戦後責任論』
徐京植のフクシマ(本書で言及)
末木文美士『日本仏教の可能性』(本書で言及)

●参照(原子力)
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』
使用済み核燃料
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『これでいいのか福島原発事故報道』
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』
黒木和雄『原子力戦争』
福島原発の宣伝映画『黎明』、『福島の原子力』
東海第一原発の宣伝映画『原子力発電の夜明け』
『伊方原発 問われる“安全神話”』
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
『科学』と『現代思想』の原発特集
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
今井一『「原発」国民投票』
長島と祝島
長島と祝島(2) 練塀の島、祝島
長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る
長島と祝島(4) 長島の山道を歩く
既視感のある暴力 山口県、上関町
眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』
1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』


小熊英二『単一民族神話の起源』

2012-02-02 11:49:02 | 政治

小熊英二『単一民族神話の起源 <日本人>の自画像の系譜』(新曜社、1995年)を読む。

本書は、日本人のルーツを探そうとするものではない。日本の論客たちが、明治から戦後にかけて、自らの姿をどのように視ようとしていたのかを追った労作である。これを読むと、中曽根康弘の発言に代表されるような純血単一民族論の歴史は存外に浅いことがわかる。

日本民族起源論は、明治期に米国から来日したエドワード・S・モースを嚆矢とする。そこから敗戦まで、主流は、混合民族論であった。各主張での細かな違いはあれ、日本人のルーツは、東南アジア(南)、大陸、朝鮮半島、アイヌなどに求められた。日鮮同祖論もその文脈に位置づけられ、神功皇后桓武天皇が朝鮮半島をルーツとすることがその根拠とされた。現在、純血単一民族論を否定するため、この根拠を引用することが多くみられるのは、実は奇妙な回帰現象なのである。

興味深いのは、混合民族論も、日鮮同祖論も、純血単一民族論も、すべてがアジア侵略を下支えする言説へと収斂していったことだ。曰く、混合民族だからこそ優秀、曰く、日本と朝鮮とは同じ祖先を持つのであるから同化すべき。欧米列強から優秀な日本がアジアを護るべきだとの欺瞞は、そういった言説の一部に過ぎない。

そして、必ずしもすべてが意図的な政治利用ではなく、何がしかの個人的な信念に支えられてもいた。たとえば、朝鮮人の創氏改名(1940年)に至るまでには、日鮮が同祖であるのに関東大震災時の大虐殺のようなことがあってはならない、という差別解消への善意さえもあった。同じ姿かたちであるなら、名前で区別できないようにすればよい。そこには、朝鮮人自身がどう考え、判断するかという観点は極めて乏しかった。地獄への道は善意から、である。

沖縄についても、歴史的な意志と無縁ではありえない。柳田國男伊波普猷の言説も、それらと共鳴する面があった。伊波普猷は、朝鮮半島から列島に到来した民族が、片や神武東征でアイヌを征服し、片や沖縄で南方系民族を征服した、と考えた。柳田國男は、日韓併合に関わった官吏でありながらそれを健忘し、ルーツを沖縄に求めた。

「・・・柳田がその気だったなら、彼は喜田とならぶ、あるいはそれ以上の混合民族論のイデオローグになれただろう。だが、彼は山人論を同化政策に結びつけることはしなかった。その理由ははっきりしないが、推測でいえば、具体的な政策現場にいたリアリストの彼は、民族起源論で現代の政策を左右した気になっている者たちが混合民族論を大合唱することに、うんざりしていたのではないだろうか。(略)
 山人論を放棄したあと、柳田は南島論にむかった。」

このメンタリティは、<島>への同化であった。当時のアジア侵略の文脈とは異なる。しかし、それが歪みであり、その後の純血単一民族論への道を拓いていたのは確かなようだ。

「・・・柳田は、大日本帝国のマイノリティである朝鮮やアイヌ、そして山人に対し自覚的でありながら、あえて彼らへの関心を切りすてた。以後の彼は、欧米の脅威にさらされる島国日本の常民を、世界におけるマイノリティとして描き、日本独自の土着文化の防衛と統一を志向していくのである。」

アイヌは常に語られる他者であったわけではない。スサノヲの半島渡来と同じく、義経=ジンギスカン伝説は、日本の大陸侵略に好ましいものであった。そして、アイヌ自身も自らの祖先伝説に義経を重ね合わせるようになった。著者は、このことについて「アイヌが自分たちの神を和人に認めさせるには、和人が称える人物と同一とするのが、屈辱的ではあるが一つの方法であった」としている。

現在、このような言説の変遷を認識せず、純血単一民族を先祖がえりのように否定したり、まるで歴史のロマンであるかのように自分は何何系だと語ってみたり、ヤポネシア論を位置付けのみで語ってみたりすることは、実は正しい方向への是正ではないのである。文脈こそが権力だったのであるからだ。

さまざまな権力のための言説は、大戦末期になると、本来はその矛盾を噴出させるはずだった。純血単一民族論が台頭するのは敗戦にいたってからだ。帝国が版図を縮小し、日鮮同祖論と混合民族論が勢力を失うと、記紀神話をフィクションとして否定したうえでの純血単一民族論が受け入れられていくようになる。

「結局、大戦後期の日本民族論は起源に言及しない抽象的スローガンばかりとなり、やがて紙不足により媒体そのものが消滅していってしまう。一般の国民には、おそらく民族という言葉がやたらと高唱されたという印象しかのこらなかったであろう。あとに残されたものは、論理的・物理的ともに沈黙だけであった。」

著者は、こういった歴史的なまちがいを克服するためには、神話からの脱却しかないと説く。

「大日本帝国は国境をこえて膨張していったし、混合民族論が論調の主流を占めていたし、コメの輸入国だったし、多民族帝国だったのだ。国際化しさえすれば、純血意識を打破しさえすれば、多民族国家になりさえすれば天皇制や日本社会の欠点が解消できるなどという考えは、大日本帝国への誤解にもとづくものであり、単にまちがいであるばかりでなく、危険である。」

●参照
尹健次『民族幻想の蹉跌』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
柳田國男『海南小記』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
伊波普猷『古琉球』
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』


半年ぶりの新宿思い出横丁とゴールデン街

2012-02-02 04:20:29 | 関東

半年ぶりに新宿思い出横丁に足を運び、写真家の海原修平さんと酒を呑む。いつか入りたいと思っていたモツ焼の店は人で一杯、それではと「トロ函」に入って鮪カマや蟹味噌をつついた。話はほとんど写真、カメラ、中国のこと。もはや作ることができない昔のレンズが今後さらに大事なものになっていくだろうとの指摘には共感した。海原さんは、リコーのGXR(Mマウント)に、アダプターを介してライカRのズミルックス50mmF1.4を付けておられた。

そのままゴールデン街に移動し、「十月」、「遠足」の2軒を紹介していただいた。ママもお客さんも愉快だった。海原さんはその「十月」で、今年の3月15日から写真展を開くという。新たな作品群のプリントを観るのが楽しみである。


「トロ函」


「十月」と「遠足」

●参照
ジョセフ・クーデルカ『プラハ1968』の後の新宿思い出横丁とゴールデン街
三田の「みの」、ジム・ブラック
海原写真の秘密、ヨゼフ・スデク『Prazsky Chodec』
海原修平『消逝的老街』 パノラマの眼、90年代後半の上海
2010年5月、上海の社交ダンス