Sightsong

自縄自縛日記

エド・ブラックウェル『Walls-Bridges』 旧盤と新盤

2013-09-16 11:34:51 | アヴァンギャルド・ジャズ

エド・ブラックウェル『Walls-Bridges』(Black Saint、1992年録音)は、1996年の発売当時からずっと愛聴している。何しろ、デューイ・レッドマン入りのピアノレストリオであり、エキサイティングでない訳がない。

ところが、ほどなくして同タイトルの2枚組が出た。店頭で手に取ってみたが、1曲「Dewey Square」が増えただけ。釈然としない気持ちのまま、新盤を聴くこともなかった。

勿論、ずっと気になってはいたので、今回思い出して新盤を入手した。


旧盤


新盤

Ed Blackwell (ds)
Dewey Redman (ts)
Cameron Brown (b)

聴き比べてみてすぐにわかった。旧盤は新盤よりも明らかにピッチが速いのだ。単純に収録時間を比較してみたところ、すべての曲において、新盤の演奏の長さが旧盤のそれの1.09-1.1倍程度にもなっている。

旧盤が出された後に、何かひと悶着あったのだろうか。片方だけを聴いている分には、言われなければわからない。ただ、当人たちにとっては、明らかな音楽の違いである。確かに、旧盤を聴いて感じていた切迫感のようなものが、新盤には希薄である。その分、新盤ではレッドマンが迷いながらソロを繰りだしていく過程が聞こえるようで嬉しい。

レッドマンのサックスは、音が太く、エッジが丸く、味があって本当に好きである。ブラックウェルのタイコも、いつものお祭り感満載。「ブーン、ブーン」と全体を駆動するブラウンのベースもいい。

そんなわけで、今後は両方聴いてもいいような気がしている。

●参照
カール・ベルガー+デイヴ・ホランド+エド・ブラックウェル『Crystal Fire』
マル・ウォルドロンの映像『Live at the Village Vanguard』(エド・ブラックウェル参加)
エリック・ドルフィー『At the Five Spot』の第2集(エド・ブラックウェル参加)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像(エド・ブラックウェル参加)
キース・ジャレットのインパルス盤(デューイ・レッドマン参加)
鈴木志郎康『隠喩の手』(キース・ジャレットのアメリカン・カルテットを流している)


ミャンマーの麺

2013-09-16 10:30:06 | 東南アジア

ミャンマーで食べた麺料理。名前は覚えていないか、普通の英語での説明だったか、言わずにホテルで出されたか。

ヤンゴンのアウンサンマーケット隣にある「ZAWGY HOUSE」にて、幅広の麺。

ネピドーのショッピングセンター内にあった「Moon Bakery」にて、豚肉の麺。正肉だけでなく皮やレバーも「これでもか」というほど入っており、何だか途中で獣臭さに辟易して残してしまった。

マンダレーのホテル内のレストランにて、卵麺。ひたすら親しみやすい味。

外国人立ち入り禁止の僻地にあるホテルにて(勿論、許可を得て入っている)、やはり親しみやすい味の焼きそばに目玉焼き。万国共通の鉄板の組み合わせか。

同ホテルにて、揚げ大蒜を散らしたあんかけそば。餡は何なのかわからなかったが、豆腐のような食感で旨かった。日本のラーメン屋も、このアイデアは「いただき」なのでは?

同ホテルにて、ジャージャー麺風の卵麺。

おまけ。ヤンゴンの「SKY BISTRO」にあったカツ丼。そこそこ旨いが、何しろカツが多く二枚重ねで、その分ご飯が少ない。また、海苔の使い方が今一つ。それでも食べたい味だった。

●参照
旨いヤンゴン


アーチー・シェップ+ヨアヒム・キューン『WO! MAN』

2013-09-15 22:35:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

アーチー・シェップ+ヨアヒム・キューン『WO! MAN』(Archie Ball、2011年録音)を聴く。

Archie Shepp (sax)
Joachim Kuhn (p)

おそらく今のところ、アーチー・シェップの最新作。ヨアヒム・キューンとのデュオならば、ふたりとも憎からず想っているわたしが聴かないわけにはいかない。

しかし、駄作とか凡作とか言うつもりは(あまり)ないのだが、どうも何らかの突破力を見出すことが難しい。シェップのブロウはこれまで通りの音色ながら、底なしの深いブルースはそこにはない。キューンの先鋭性もない。ふたりとも、自分自身の真似をしているようにさえ聞こえてくる。

キューンのピアノとのデュオであれば、オーネット・コールマンと組んだ『Colors』(1996年録音)などは遥かにハチャメチャで、かつ美しく、痺れる作品だったぞ。まあ、リラックスした巨匠同士の交歓とでもみなすべきか。

●参照
アーチー・シェップ『The Way Ahead』
『Jazz in Denmark』 1960年代のバド・パウエル、NYC5、ダラー・ブランド
アーチー・シェップの映像『I am Jazz ... It's My Life』
イマジン・ザ・サウンド


フィリップ・K・ディック『ユービック』

2013-09-15 11:37:47 | 北米

ヤンゴンからの帰路に、フィリップ・K・ディック『ユービック』(ハヤカワ文庫、原著1969年)を読む。

思いのほか早く、手持ちの本を読み終えてしまったところだった。念のため電子書籍版を収録したKobo Touchをスーツケースに入れておいてよかった。

近未来(とは言っても、本書が書かれた時点からの近未来であるから、もう過ぎ去ってしまっている)。世界にはエスパーが何人も存在し、社会や産業に入り込んでその能力を活用している。一方、その能力を無化する抗エスパーたちは、エスパーから自らを保護するための機能として、「良識機関」なるビジネスに取り込まれている。

あるとき、抗エスパーたちは、謀略にかかり、半死状態となってしまう。その意識世界において、抗エスパーたちの肉体も、周囲も、時間が急速に遡り、半死から死へと追い込まれようとする。そこに登場する「ユービック」なるものは、さまざまな俗的な商品の形態をとりつつも、エントロピー増大をくいとめる神として闘いを開始する。

混沌とした世界において、正と邪とが戦争を行うという、途方もなく大きなヴィジョンを提示する作品である。後年の『ヴァリス』『聖なる侵入』(1981年)にも共通する世界であり、また、ヴィジョンばかりがあまりにもいびつに大きく、その小説への投影が把握しきれず眩暈がする点も共通している。

半死の意識世界は他ならぬこの世界でもあるといったアナロジイ的な読み方も可能だ。その意味では、この作品は、世界が、無数の並行する流れによって形成されているのだというイメージを強烈に示してくれる。さすがディック。

●参照
フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』(1981年)
フィリップ・K・ディック『ヴァリス』(1981年)
フィリップ・K・ディック『空間亀裂』(1966年)
フィリップ・K・ディックの『ゴールデン・マン』(1954年)と映画『NEXT』


ミャンマーの空

2013-09-12 05:31:00 | 東南アジア

インドネシアからそのままミャンマーに移動してきて、もっとも驚いたことは、空の広さ。ヤンゴンからネピドー、マンダレーと北上し、標高も高くなってくると、雲が低くなってきたようにみえる。


ヤンゴン


ネピドー


ネピドーからマンダレーに向かう


旨いヤンゴン

2013-09-10 14:04:22 | 東南アジア

ミャンマー初上陸。ラングーンといえばまた感慨も異なるのだろうけど、ヤンゴンである。

予想を上回る田舎ぶり。

■ dining fukurou

いきなり日本食。

ミャンマービールははじめて飲むがあっさりしていて旨い。ミャンマーには他にダゴンビールというものもあって、そちらはやや強い。

日本企業が押し寄せているためもあるのか、そういうところの日本食はハイレベル。鯖の塩焼きなんて本当に嬉しい。

■ Minn Lane Lakhine Monte & Fresh Sea Food

風通しがいい小屋のレストラン、ローカル度100%に近い。確かに魚介が新鮮で、賑わっていた。昼から酔っぱらって笑いまくる地元の人たちを見ると、こちらも笑えてきたりして。

■ SKY BISTRO

ダウンタウンのSakura Towerの20階にあるレストランで、どうやらこれが市内でもっとも高いビル。

ヤンゴン川の河口やパゴダを眺める場所でジュースを飲んだりしていると、そのまま動きたくなくなるのだった。

■ ZAWGY HOUSE

アウンサンマーケットの隣。新しいのかずいぶん綺麗で、内装が洒落ている。ここのおすすめはダゴンビールのようだった。


旨いジャカルタ その2

2013-09-10 09:23:44 | 東南アジア

ジャカルタ3日間。(いまはネピドー)

■ Samarra

店のつくりが中東風だが、インドネシア料理を出し、場違いにアメリカのポップスをかけている。いろいろな種類のサテを食べることができて、かなり旨い。

■ Ninety-nine

Grand Indoesiaの地下にある。同行者たちが、去年ここで一度食べたはずだと言うのだが、何も思い出せない。つまり清潔な隔離空間であり印象が希薄。しかし、普通に旨い。

■ SKYE

Menara BCAの56階にあるオープンエアのバー。何と専用エレベーターで昇る。眺望は最高で、もちろん怖い。

バンコクのBanyan Tree Hotelの62階にも、同じような「Vertigo」(めまい)というバーがあった(>> リンク)。みんなこういうものが好きなのかな。

■ Dirty Duck Dinner

鴨料理。何でもバリ島名物だそうで、バリ島に住んでいる仕事仲間が連れていってくれた。骨付きであるから、誰もが無言で黙々と食べる。

●参照
旨いジャカルタ


エリカ・ロバック『Call Me Zelda』

2013-09-08 05:39:54 | 北米

ジャカルタからシンガポールに向かう機内で、エリカ・ロバック『Call Me Zelda』(New American Library、2013年)を読了。

いまはミャンマーのヤンゴン。到着早々にヘンな時間に寝てしまい、夜中に起きてこれを書いている。

エリカ・ロバック(Erika Robuck)という女性作家の小説を読むのは初めてだ。プロフィールを見る限り若い人のようである。

『ゼルダって呼んで』というタイトルにあるように、これは、スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダ・フィッツジェラルドの物語である。1920年代の「ジャズ・エイジ」に華麗な交遊で社会の花形になったゼルダだったが、小説がはじまる30年代初頭には、既に心を病んでいた。

精神病院に入院したゼルダは、看護婦の主人公アンナに心を開き、やがて、自分専属になってもらうまでに信頼するようになる。その一方で、夫スコットとの確執があった。スコットは、自分の小説の題材としてゼルダの体験を利用し、ゼルダ自身が手記を発表することを頑なに阻止しようとしていた。そして朝から泥酔し、時に自分の弱さをさらけ出しては泣きじゃくる弱い存在でもあった。

ゼルダの病状は悪化し、遂に、アンナにも口をきかないようになってしまう。しかし、まったくそれを認識していないわけではなかった。ゼルダが消えて10年位が経ち、突然、アンナのもとにゼルダからの手紙が届く。自分の来し方を辿り、かつて書き記して夫に隠し通した日記を探してほしいというのだった。アンナは夫に子供をゆだね、ゼルダが生きた跡を追ってはポラロイド写真を撮る旅に出る。そのとき、スコットは既に他界しており、ゼルダも伝説の人と化していた。そして、アンナはついに日記を発見する。

最初は自己満足型の軽い小説に思えていたが、実は存外に面白く、最後は駆け抜けるように読み終えてしまった。手放せなくなって、ジャカルタのホテルでこれを読みながら1時間のエクササイズをしていたりして。

どこまでが史実でどこからが創作かわからないのだが、ゼルダのエキセントリックな言動やスコットに対する愛情と憎悪などにはなかなか奥深い印象を覚えた。また、夫と子供を失った主人公アンナが、ゼルダとの交流をきっかけに、新たな自分の人生を創りだしていく過程を交えた展開も面白かった。最後の日記探索とゼルダとの再会などはスリリング。

ちょっと自己憐憫過多でべたべたな筆致ではあるが。


ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』

2013-09-02 22:51:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』(Black Saint、1982年)。

Wayne Horvitz (p, key)
Butch Morris (tp)
William Parker (b)

一聴、何とも捉え難い演奏だ。

三者が重力を創りだし、聴き手との間の媒体を凝集させ、その媒体を経て宇宙空間に音を響かせるプロセスのみにひたすら奉仕しているような、奇妙な感覚。聴き手は宇宙空間に浮遊しつつ、その音に共鳴し、どこかへと連れ去られてしまっている。

中でも、中心人物はやはりウィリアム・パーカー。ホーヴィッツの基底音と交感しながら、空間全体を震わせるような、素晴らしい瞬間がある。

●参照
ブッチ・モリス『Dust to Dust』
ウィリアム・パーカー+オルイェミ・トーマス+リサ・ソコロフ+ジョー・マクフィー+ジェフ・シュランガー『Spiritworld』
ダニエル・カーター『The Dream』、ウィリアム・パーカー『Fractured Dimensions』
ウィリアム・パーカー『Luc's Lantern』
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集
ジョー・ヘンダーソン+KANKAWA『JAZZ TIME II』、ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』 オルガン+サックスでも随分違う
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(ウィリアム・パーカーが語る)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(ウィリアム・パーカーが語る)
セシル・テイラー『In Florescence』(ウィリアム・パーカー参加)
サインホ・ナムチラックの映像(ウィリアム・パーカー参加)
ペーター・ブロッツマン(ウィリアム・パーカー参加)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(ウィリアム・パーカー参加)
『Tribute to Albert Ayler / Live at the Dynamo』(ウィリアム・パーカー参加)


『Megaquake III 巨大地震』続編

2013-09-01 22:56:00 | 環境・自然

NHKで放送された『Megaquake III 巨大地震』(2013/8/31, 9/1)。

前回放送(2013/4/7, 14)(>> リンク)の続編たる第3回と第4回であり、それぞれ「よみがえる関東大震災~首都壊滅・90年目の警告~」、「南海トラフ 見え始めた”予兆”」と題されている(>> リンク)。


番組のポストカード

関東大震災は1923年9月1日、つまり、ちょうど90年前に発生した。

震源地は相模湾から房総半島南部までの広い範囲に及んだ。フィリピン海プレートの沈み込みに伴い蓄積されたエネルギーが解放されたものであり、典型的なプレート境界型地震であるとともに、都市直下型地震でもあった。

当時の地震計の記録を用いた最新の研究によると、このとき、震度7以上の揺れとなった地域は、神奈川から南房総まで広範囲にわたり、実に阪神・淡路大震災の20倍の面積であった。

死者・行方不明者は10万人超、その9割は火災により亡くなっている。しかも、その3分の1は、墨田区の横網町公園において、「火災旋風」という現象によって、である。多方面で発生する火災が、煙と炎を伴う恐るべき竜巻を起こし、人びとを巻き上げ呑み込んだというのである。

90年という時間をどうとらえるべきか。館山に、過去の大震災による隆起の跡が残されており、それによれば、大震災の間隔は短くても200年であった。しかし、さらにボーリング調査を行うと、地表で視える隆起だけでは大震災の歴史を捉えきれていなかったことがわかってきたという。また、南房総から東のエリアは、関東大震災でもエネルギーが解放されておらず、かなりのエネルギーが蓄積され、解放されるのを待っているという。すなわち、やはり、いつ次の首都直下型地震が起きてもおかしくはない。

但し、こういった研究は、いわゆる「予知」ではない。可能性が高まっていることは推測できても、いつそれが起きるか、本当に起きるのか、については、予測できないわけである。GPSを用いた精緻な測地によって、今後、「予兆」を捉えることができるのかについては、まだ言うことができる者はいない。番組は、そのあたりを、意図的に曖昧にしているように思えた。

第4回では、「スロー・クエイク」(NHK用語?)に焦点を当てている。東日本大震災でも、発生の1か月以上前から起きていたという、地震計にしか捉えられない微細な「遅い地震」。これが、プレート境界に蓄積したエネルギーをじわじわと解放し(その点だけで言えば、大地震でないために良い現象なのだが)、それが、プレート境界の固着エリアたる「アスペリティ」の断裂を促進したとする。

南海トラフでも、通常の地震源を取り囲むようなエリアにおいて、「スロー・クエイク」が起き続けている。これと、GPSによる精緻な測地情報とを組み合わせて、何とか大地震発生の「予兆」が捉えようとされている。

しかし、同様に「スロー・クエイク」異常発生が観測され警戒されていた北米西岸では、突然それが消え、大地震にはつながらなかった。すなわち、こういった考えも、まだ模索段階にすぎず、「予知」には至らない。

番組の最後では、「叡智を結集して、云々」と空虚なことばが並べたてられていた。メカニズムの研究と「予知」との距離はまだまだ遠く、現在の時間的・地理的解像度では、いつ何どき大地震が起きても何とかなるような対策を講じるべきである。

●参照
『Megaquake III 巨大地震』
『The Next Megaquake 巨大地震』
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
東日本大震災の当日


ジョコ・アンワル『Modus Anomali』

2013-09-01 13:55:11 | 東南アジア

インドネシア映画、ジョコ・アンワル『Modus Anomali』(2012年)。原題は「異常なモード」とでもいう意味のようだ。

ジャカルタのDVDショップで、400円位で買った。仕事仲間のインドネシア人に見せると、何だ正規盤じゃないかと言われてしまった。コピー製品がそれだけ普通だということである。

帰国して早速観たが、あらすじを書きたくもない、陰惨で異常な物語。何を考えているのか。

もっとも、インドネシアのアクション映画をくれと店員に訊くと出してくれたわけなので、こんな気色悪いものだと知らなかった自分が悪い。廃棄処分決定。