MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

なかなか信用を得られない人

2009-11-22 00:27:02 | Weblog

金庫カラにし自民下野 機密費、突出の2.5億円支出(朝日新聞) - goo ニュース

 どうしても私には平野博文官房長官が、政権交代が決まった衆院選2日後の9月

1日に当時の河村建夫官房長官が2億5千万円を内閣府に請求し、引き出していた

ことに対して「前政権の時の支出だ。私が根掘り葉掘りこれはおかしいということは、

前政権のことだから、差し控えたい」と述べるのは間違っていると感じてしまう。

そんなことを言い出したら前政権のことに対して何も文句が言えなくなってしまい、

何のための政権交代だったのかわけが分からなくなってしまう。どう考えても政権

交代が決まってから通常の2.5倍の金額を引き出していたということは私物化

以外の何ものでもないはずなのだから、河村健夫を証人喚問で呼び出す必要が

あると思う。そうしなければ平野も同じことをするつもりであるのだろうという国民の

疑心暗鬼は増すばかりである。


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『特集:ヴィターリー・カネフスキー特集上映』 100点

2009-11-22 00:05:09 | goo映画レビュー

特集:ヴィターリー・カネフスキー特集上映

-年/-

ネタバレ

大人になるための父親殺しについて

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ヴィターリー・カネフスキー監督の1989年の作品『動くな、死ね、甦れ!』は誰もが傑作と称賛するフィルムである。まずは恐らくその張本人であろう人の文章を少し引用してみる。
 「自信をもって断言するが、今年最大の映画的な事件は、何といってもヴィターリー・カネフスキーの登場である。カネフスキーの『動くな、死ね、甦れ!』を見損なった人には、しばらく映画という言葉を口にするのを控えてもらうしかなかろう。間違っても、自分は映画が好きだなどとつぶやかないでほしい。/もっとも、自信ほど無責任なものもまたないのだから、これはさしたる根拠もない身勝手な断言だといってよい。とはいえ、無根拠な断言へと人を駆り立てる映画なんて、そうたくさんあるものではない。(P.44)」
 「『動くな、死ね、甦れ!』はかけねなしの傑作だという言葉に偽りはない。これほど鮮烈な抒情が映画で描きうるとは到底想像しがたいほどの澄んだ緊張感が、一瞬ごとに画面を揺るがせるのである。舞台は、第二次大戦直後のソ連の極東地帯のスーチャン。雪で湿った炭鉱町には日本兵が抑留されていて、悪戯小僧のワレンカと少女ガーリアとは彼らの友達だ。戦後の混乱ですさみきっているあたりの空気を全身で受け止めながら、二人は不器用に、だが懸命に生きる。そのさまが滑稽なまでに痛ましいのだが、映画はセンチメンタルな同情で彼らの振る舞いを許したりはしない。大人たちもまた、子供の成長を気遣うほどの心の余裕がなく、ひそかな共犯意識で結ばれる少年と少女の行動は、知らぬ間に社会と大きく行き違ったものになってゆくしかない。少年は、ちょっとした腹いせに蒸気機関車を転覆させ、少女とともに逃げ惑うことになるだろう。/おそらく、この映画を一度でも見たことがある人なら、少年と少女を演じる役者の顔を一生忘れることができまい。あたかもそのことを察していたかのように、監督のカネフスキーは、たてつづけに二本も彼らを主演に映画を撮ってしまった。『動くな、死ね、甦れ!』を見てしまったなら、誰もが『ひとりで生きる』や『ぼくら、20世紀の子供たち』を見ずにはおれないはずだ。このかけねなしの傑作を見逃すことは、生涯の損失につながるはずだと自信をもって断言したい。(P.161-P.162)」(『映画狂人日記』 蓮実重彦著 河出書房新社 2000.3.24)
 この最後の‘殺し文句’で今回久しぶりの上映となる『動くな、死ね、甦れ!』を見るためにわざわざ渋谷まで足を運んだ人は多いだろうし、見終わって、わざわざ見に来たことを生涯とは言わずとも時間の損失だと思っている人も少なからずいるだろう。
 確かに観客を困惑させる作品であることは間違いない。1989年というそれほど昔の作品ではないのだが、画質はまるでロベルト・ロッセリーニ監督の1948年制作の『ドイツ零年』やピエル・パオロ・パゾリーニ監督の1961年制作の『アッカトーネ』のように粗く、サウンドトラックも不安定で、何よりも物語が終始殴り合いと罵り合いである。私は『動くな、死ね、甦れ!』を見終わった時点ではその良さがよく分からなかった。
 しかし引き続き1991年の作品『ひとりで生きる』、1993年の作品『ぼくら、20世紀の子供たち』を見た時に印象が変わった。
 前作とは全く撮影技法を変えて、カラーで丁寧に撮られている『ひとりで生きる』の15歳のワレルカは終始別れを告げているように見える。前作のガーリヤとの別離を引き継ぐように、ここでワレルカは学校に別れを告げ、豚に別れを告げ、ネズミに別れを告げる。その寺山修司的映像に似て非なるところは、カネフスキーがこだわっているのは母親ではなくて父親だからだ。
 『ぼくら、20世紀の子供たち』がドキュメンタリーで撮られている理由は、フィクションで捉え切れなかったものを、実際にいる盗みや物乞いで生活している少年少女たちと接することで確かめてみたかったのだろう。そしてカネフスキーは驚いたに違いない。少年院にワレルカ役を演じたパーヴェルがいたことを。そしてそこに順調な人生を歩んでいる少女役を演じていたディナーラが訪ねてきてくれたことを。
 カネフスキーが映画を制作する時の立場は子供たちの味方のつもりで撮っていたはずである。ところが3作品の主人公の2人はまるでカネフスキーが役として取り決めたままの実人生を送っていたのである。『ぼくら、20世紀の子供たち』のラストでカネフスキーが子供たちに「父親を殺せるのか?」という問いかけは「何故、俺(カネフスキー監督=父親)を殺せないんだ?」という反語であろう。この‘最大の映画的な事件’にカネフスキーは絶望したのではないだろうか?
 私は『動くな、死ね、甦れ!』を傑作だとは思わないが、今回特集上映されたヴィターリー・カネフスキー監督3部作を傑作と自信をもって断言することにやぶさかではない。


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