MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『沈黙-サイレンス-』

2017-02-07 00:53:36 | goo映画レビュー

原題:『Silence』
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:マーティン・スコセッシ/ジェイ・コックス
撮影:ロドリゴ・プリエト
出演:アンドリュー・ガーフィールド/リーアム・ニーソン/窪塚洋介/浅野忠信/加瀬亮/小松菜々
2016年/アメリカ・台湾・メキシコ・イギリス・イタリア・日本

信仰の「形骸化」の重要性について

 本作の題名である「沈黙」は神が何も語らないことを表している。何故神は迫害されている信者に対して救済することなく沈黙したままなのかが本作のテーマである。
 例えば、キチジローの手引きでマカオから日本の長崎のトモギ村に潜入したセバスチャン・ロドリゴ神父とフランシス・ガルペ神父が遠くで見守る中、キチジローや村長のイチゾウを含む4人の村人が長崎奉行に捕まり彼らは踏み絵を強要される。彼らが全員イエス・キリストの彫り物を踏むことができた理由は、2人の神父が見ていることを知らなかったからであろうが、さすがに目の前に向けられた、キリストが磔にされている十字架に唾を吐くことを強要された時は、キチジローを除いて出来なかった。
 実際に、2度目の踏み絵のシーンにおいて、捕らえられたセバスチャン・ロドリゴ神父が見ている中で、一緒に捕えられていた信者たちは神父の目が気になり彫り物を踏むことができないのであるが、踏み絵の仕方の見本として連れてこられたキチジローは相変わらず平気で踏んでそのまま釈放されるのである。だからと言ってキチジローは棄教したわけではなく、先に棄教してしまったセバスチャン・ロドリゴ元神父に対して告白を聞いて欲しいと求めるのである。
 一見するならばキチジローの行動は奇妙なものではあるが、キチジローにしてみれば「告解」という制度がある以上、罪を犯すことにためらいはないのである。この時、ロドリゴは自分たちが存在するから信者たちが苦しむ羽目に陥っていることに気が付き、あたかも存在しないものとして神が沈黙している理由を悟るのである。つまり信仰において重要なことは信仰の「証明」ではなくその「形式」であるという本作の結論に観客は驚きを禁じ得ない。


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