原題:『Little Women』
監督:グレタ・ガーウィグ
脚本:グレタ・ガーウィグ
撮影:ヨリック・ルソー
出演:シアーシャ・ローナン/フローレンス・ピュー/エリザベス・スカンレン/エマ・ワトソン
2019年/アメリカ
「個人的見解」としての女性学について
言わずと知れた『若草物語』であるが、ここではマーチ四姉妹の次女で小説家を目指しているジョーと四女で画家を目指しているエイミーの「才能」に注目したい。
エイミーは良い絵を描くのであるが、不運にも時代は印象派に流れており、「上手い」だけの作品が評価される時代ではなくなっている。一方で、ジョーが書く小説は、最初は編集者のミスター・ダッシュウッドの言われる通りに書いていたのであるが、ダッシュウッドは評価しなかったのであるが彼の子供たちが四姉妹の日常を淡々と描いただけの『若草物語』の草稿を読んで続きを読みたがったことから出版が決まり、つまりジョーの小説は「新しい」ものだったのである。この芸術から恋愛までに渡る2人の「抗争」が本作のサブストーリーとして機能している。
ところで若い観客だったら何故ジョーはローリーと結婚した上で小説を書かないのかと訝しがるかもしれないのだが、当時の結婚は「専業主婦」になるという意味なのである。興味深いのはマーチ姉妹の大伯母のマーチおばさんに執拗に結婚を勧められたエイミーが、おばさんが独身であることを指摘すると「私は金持ちだから」と啖呵を切るところである。
これはなかなか考えさせられる指摘で、例えば日本のフェミニズムの代表である上野千鶴子などは「おひとりさま」というキーワードで女性の独立を提唱しているが、それは裕福だからできる話しであって、一般人には無理な話しで、そう考えると上野に限らず田嶋陽子の女性学が日本の女性の社会的地位の向上に貢献したことは一度たりともなかったのではないだろうか? 最近において女性の社会的進出が顕著に見えるのは少子化による人材不足によるものや、あるいはアグネス・チャンのような「実践」の積み重ねによるものであって、上野や田嶋はあくまでも女性の社会的地位向上に貢献したのではなく、「上野」あるいは「田嶋」という、他の女性たちには歩むことができない特異な道を切り開いただけで、自由を謳歌できる女性はマーチおばさんの時代から金持ちの女性に限られているのである。