大手町平和ビルの7・8階に広島市公文書館はある。土日は休館日だが、祭日の今日は講演会があった。エレベーターで5階に上がった。館長の話では「定員を超える申し込みがあった」ということである。
会場は年配の方が多かった。講師の杉本俊多さんはドイツ近代建築の研究では第一人者で、母校工学部の教授でもある。本題に入る前の雑談で、明治初期、産業奨励館のあった場所に木造5階建ての牛鍋屋【五階楼】が存在したことに触れ聴衆は驚いていた。
江戸時代の城下町地図を見ながらの解説は分かりやすく、益々興味がわいた。歓楽街「流川」が昔はれっきとした川であった、本川は元々人工的に造った川(堀)だった、現在の鯉城通りは西堂川(堀幅約20m)を埋め立ててできたことを知った。
大正期まで広島最大の歓楽街だった「中島」は原爆で跡形もなく消え今は平和公園になっているが、江戸時代中期、ここに町人が住み着いて「活気ある町」が形成されていたと説明を受けた。
本川と元安川に挟まれたデルタ地帯「中島」とサント・ペテルブルクがダブって見えるという指摘は大変面白い。現在の写真や古地図を見ると大手町筋とボリショイ(=大きいという意味w)通りは確かに似ている。ピオトル大帝が採用した「堀割り」の技術はオランダで発展したものだ。
城下町形成(都市計画)はあらゆる知力を集結させた一つの芸術であると言えるかもしれない。残念なことに、日本人は古い物を破壊することにあまり痛みを感じない(自分の暮らす街に誇りが持てない)ので、ほとんど保存されていない。これがヨーロッパとの大きな違いである。
杉本先生のおかげで有意義な2時間を過ごすことができた。今までの見慣れた鯉城通りを昔は船が行き来していたことを思い浮かべながら、袋町まで歩いた。
![鷹野橋から鯉城通り(大手町付近)を望む](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/59/2277ec05d0f257d638b958e3c4247e75.jpg)
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