東千田キャンパスで扇動者(アジテーター)を見ない日はほとんど無かった。ヘルメットに覆面という姿のおっさんやおばさんが休憩中に講義室に入ってきて○□闘争について一方的に喋るのだが、学生の大多数は無関心であった。
2年生(昭和63年)の前期、徹夜のバイト明けに正門を通過すると時代遅れの連中が固まって「大学封鎖」をしていたことがあった。久々に講義を聴こうと思って出て来た者にとっては悪夢のような出来事だ。近くにいた強面の学生が「お前ら如きがワシの学ぶ権利を勝手に奪うとは何事か!」と怒号を浴びせた。眠気が吹き飛んだ私は大声で「馬鹿たれ」と叫んでいた。私達の世代にとって短絡思考の扇動者らは芋虫のような存在だったのである。
昨日の産経新聞で加地伸行さんがアジテーターを扱き下ろしていたのは痛快だった。「多数派重視のふわふわ分子」という題名がまた皮肉が効いている(笑)
世には民衆を扇動する連中がいる。アジテーターである。彼らは、人々が集合したときに現れ、演説して議論を導いた。
五十数年前、私が学生のころ、学生運動が盛んであった。どこでもここでも集会があり、必ずアジテーターが現れてどなりまくった。しかしそれは、自分の意見に同意しない者は人間ではないと言わんばかりの感情論であり、論理性や知性のかけらもなかった。
ところが、そういうアジ演説に酔うバカがたくさんいたのである。五十数年前の大学生は、今どきのそれと異なり、しっかりしていたと思われているが、実際はそうではなくて、大半はふわふわ分子であった。だから、ちょっとしたアジ演説を聞くと、無批判にそうだそうだとヨイショするのが多かったのである。それが京大生の実態であった。そこから推量すれば、おそらく他大学の学生もほほ同様であっただろう。
(中略)
今日の大学では学生の集合など見かけない。集まっているとすればライブショーだの講演会だのであって、集合の意味が違う。今の学生は、個か孤か知らんが、集まりはしない。けれども大半は昔と同じくミーハーふわふわである。
当然、一般社会も同じであって、あい変わらずアジテーターに引っ張られている。ただし、今は人の集合がないので、アジテーターはテレビに登場している。いわゆるコメンテーターである。
彼らは昔のアジテーターのような大声で長々としゃべることはしないが、あい変わらず感情的結論だけを断定的に言う。アジテーターの本質は変わっていない。
さて選挙。テレビのコメンテーターらは、特定の政党に投票するよう誘導・扇動している。彼らの関心は、どの政党が多数派になるかという話ばかりである。少数議員しかいない政党など何の力もないとして無視し、多数決、世論第一とふわふわしている。
(中略)
大政党公認の傲慢な候補者は、小政党の弱小候補者を泡沫候補と嘲っている。テレビのコメンテーターも同様である。
(中略)
小政党候補者の意見の中には、耳を傾けるべきものがある。いや、意見だけが重要なのではない。たとい泡沫候補と嘲られようとも、己の志を世に訴える勇気はりっぱなものではないか。
加地さんが指摘したアジテーター(≒コメンテーター)とはおそらく●新聞絡みのTS氏を指しているのだろう。(とりあえず一時的に身を引いた)権力者に媚びへつらう姿勢は痛々しいし、非常に気持ち悪い。
「自主憲法制定」を訴える政党を笑う前に自浄能力の低さを謙虚に反省し、特定の団体の懐を肥やすような法案提出を一から見直さないと、大政党(パンパンに膨れ上がった風船)とは言えども「Mの悲劇」が訪れる可能性は十分ある(笑)
2年生(昭和63年)の前期、徹夜のバイト明けに正門を通過すると時代遅れの連中が固まって「大学封鎖」をしていたことがあった。久々に講義を聴こうと思って出て来た者にとっては悪夢のような出来事だ。近くにいた強面の学生が「お前ら如きがワシの学ぶ権利を勝手に奪うとは何事か!」と怒号を浴びせた。眠気が吹き飛んだ私は大声で「馬鹿たれ」と叫んでいた。私達の世代にとって短絡思考の扇動者らは芋虫のような存在だったのである。
昨日の産経新聞で加地伸行さんがアジテーターを扱き下ろしていたのは痛快だった。「多数派重視のふわふわ分子」という題名がまた皮肉が効いている(笑)
世には民衆を扇動する連中がいる。アジテーターである。彼らは、人々が集合したときに現れ、演説して議論を導いた。
五十数年前、私が学生のころ、学生運動が盛んであった。どこでもここでも集会があり、必ずアジテーターが現れてどなりまくった。しかしそれは、自分の意見に同意しない者は人間ではないと言わんばかりの感情論であり、論理性や知性のかけらもなかった。
ところが、そういうアジ演説に酔うバカがたくさんいたのである。五十数年前の大学生は、今どきのそれと異なり、しっかりしていたと思われているが、実際はそうではなくて、大半はふわふわ分子であった。だから、ちょっとしたアジ演説を聞くと、無批判にそうだそうだとヨイショするのが多かったのである。それが京大生の実態であった。そこから推量すれば、おそらく他大学の学生もほほ同様であっただろう。
(中略)
今日の大学では学生の集合など見かけない。集まっているとすればライブショーだの講演会だのであって、集合の意味が違う。今の学生は、個か孤か知らんが、集まりはしない。けれども大半は昔と同じくミーハーふわふわである。
当然、一般社会も同じであって、あい変わらずアジテーターに引っ張られている。ただし、今は人の集合がないので、アジテーターはテレビに登場している。いわゆるコメンテーターである。
彼らは昔のアジテーターのような大声で長々としゃべることはしないが、あい変わらず感情的結論だけを断定的に言う。アジテーターの本質は変わっていない。
さて選挙。テレビのコメンテーターらは、特定の政党に投票するよう誘導・扇動している。彼らの関心は、どの政党が多数派になるかという話ばかりである。少数議員しかいない政党など何の力もないとして無視し、多数決、世論第一とふわふわしている。
(中略)
大政党公認の傲慢な候補者は、小政党の弱小候補者を泡沫候補と嘲っている。テレビのコメンテーターも同様である。
(中略)
小政党候補者の意見の中には、耳を傾けるべきものがある。いや、意見だけが重要なのではない。たとい泡沫候補と嘲られようとも、己の志を世に訴える勇気はりっぱなものではないか。
加地さんが指摘したアジテーター(≒コメンテーター)とはおそらく●新聞絡みのTS氏を指しているのだろう。(とりあえず一時的に身を引いた)権力者に媚びへつらう姿勢は痛々しいし、非常に気持ち悪い。
「自主憲法制定」を訴える政党を笑う前に自浄能力の低さを謙虚に反省し、特定の団体の懐を肥やすような法案提出を一から見直さないと、大政党(パンパンに膨れ上がった風船)とは言えども「Mの悲劇」が訪れる可能性は十分ある(笑)
