福山市鞆町は空襲を受けていないので江戸期の建物がかなり残っている。私は大きな蔵を併設した商家の前まで来て「これかー」と叫んだ。
三浦正幸先生の名著『日本の宝 鞆の浦を歩く(南々社 2010年)』を読むと昔は石の基礎のすぐ下が道であったようだ。後に土などを削り取って現在の道路が出来たということだから、急勾配の坂だったことになる。荷車押しで日銭を稼ぐ者が坂の下で待ち受けていたという話も納得できる。
福山市教育委員会が商家の大戸近くに設置(平成元年七月)した説明板にはこう書かれてあった。
この建物は、母屋、土蔵とも江戸末期の商家であった。母屋の内部は通り庭形式の三間取りで、店の間、中の間、奥の間の三室を配し、商家の建築様式の一つである。入口の格子や吊り大戸は、建築当初のものに復元した。
土蔵は、全部和釘(角釘)を使用し、幕末頃に流行した登り梁造りになっている。なおこの土蔵は明治末期に移築したものである。
その後、明治二十七年設立の「鞆製網合資会社」の建物となり、魚網製造を中心に漁具・船具を北海道から東南アジアまで広範囲に販売する会社であった。
![鞆の津の商家(福山市重要文化財)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/ac/23a7e474c02a129b65e893408c47e704.jpg)
三浦正幸先生の名著『日本の宝 鞆の浦を歩く(南々社 2010年)』を読むと昔は石の基礎のすぐ下が道であったようだ。後に土などを削り取って現在の道路が出来たということだから、急勾配の坂だったことになる。荷車押しで日銭を稼ぐ者が坂の下で待ち受けていたという話も納得できる。
福山市教育委員会が商家の大戸近くに設置(平成元年七月)した説明板にはこう書かれてあった。
この建物は、母屋、土蔵とも江戸末期の商家であった。母屋の内部は通り庭形式の三間取りで、店の間、中の間、奥の間の三室を配し、商家の建築様式の一つである。入口の格子や吊り大戸は、建築当初のものに復元した。
土蔵は、全部和釘(角釘)を使用し、幕末頃に流行した登り梁造りになっている。なおこの土蔵は明治末期に移築したものである。
その後、明治二十七年設立の「鞆製網合資会社」の建物となり、魚網製造を中心に漁具・船具を北海道から東南アジアまで広範囲に販売する会社であった。
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