寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

頼山陽が命名した対仙酔楼を見て鯛亭で昼食を取る 

2011年12月28日 | 
県道47号線を海岸通りに向かって進む。精肉店が見えたところで右の細い路地に入る。この道はババ小路(八籠屋小路)と呼ばれ「関町大坂屋と八籠屋との間の小路(今の水道局裏の小路)…」(『鞆の地名あれこれ』より)のことを指す。

江戸時代末期の豪商・大坂屋の土蔵

ババ小路の途中に鞆の豪商・大坂屋の土蔵があった。私はどん突きを右折して新しい茶店の前に出た。

大坂屋の対仙酔楼

対仙酔楼1階入口付近に建つ「頼山陽先生 日本外史起稿史跡」の石碑

茶店の隣が大坂屋(明治になって没落)の対仙酔楼(長屋門)である。ちなみに楼の命名者は頼山陽で門の入口付近に「日本外史起稿史跡」という石碑が建つ。江戸時代は石垣までが陸で、現在の駐車場や海岸通りは海だった。

駐車場(江戸時代は海)から対仙酔楼と茶店を望む

鞆の浦魚処 鯛亭

鞆シーサイドホテル近くの鯛亭で昼食を取ることにした。客のほとんどが鯛めしデラックスか鞆の浦定食を頼んでいたが、私はあえて刺身定食にした。もちろん瓶ビールを飲むからだ。

この日の造りはスズキ、太刀魚などの厚引きで弾力に富んでいた。気の利いたアテがつきビールが美味しかった。主人は黙々と仕事をする人で好感が持てた。軽く飲んでも2千円で釣りが返って来る。ここの煮物はやや甘めである。

鞆の浦 魚処 鯛亭(龍馬ゆかりの地 鞆の浦食べ歩きグルメマップより)

力石が奉納された住吉神社

仲仕が力比べをしたという大きな石

休憩を挟んで住吉神社から観光を再開。仲仕が楽々と持ち上げたという力石、自分にはとても無理だろう。怪力の男たちが船荷を運んだ辺りを眺めながら松崎しげる氏がドラマの撮影で世話になったという美容室の方へ歩いて行った。

鞆の雁木(船着場の石段)

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徳川家康の苦言によって廃城となった鞆城

2011年12月28日 | 
広島県道47号鞆松永線(鞆のメインストリート)の四つ角と呼ばれる地点に建つアール・デコ風天ぷら建築、喫茶「友光軒」が観光客の注目を集めていた。この隣のスペースは元銭湯である。

移築された鞆城三の丸の石垣(徳永医院前)

徳永病院前の説明板

私は東へ歩いて行き徳永医院前の説明板(平成6年2月福山市教育委員会建之)に近寄った。この鞆城三の丸の石垣は現在地より約23m南にあったとのことである。

広島県道47号鞆松永線に新たに設けられた離合場所(食事処おてび周辺)

ちょうどいい機会なので鞆町の渋滞の原因になっている県道47号について触れておく。画像は徳永医院前辺りから東の方角を望んだもので白い車の左手(駐車スペース)が新たに造られた離合場所だ。大型車がギリギリ通行できるような狭い道のため、決められた場所で対向車が通過するまで待つのがこの地の長年のルールであり今なお大問題として残っているのだ。

真言宗・地蔵院(鞆城二の丸跡)

医院の対面(北)を見上げると地蔵院で、こちらには二の丸の石垣が残っている。山門から墓地を通って鞆城山公園に出た。

鞆城山公園

鞆城跡はそのすぐ東だった。福島正則が拡張した城が家康の逆鱗に触れ廃された後は町奉行所が置かれた。鞆の浦民俗資料館の前を通過し坂道を下り47号線に戻った。

鞆城跡

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滋味あふれる里芋

2011年12月28日 | 食材
秋から特においしくなる里芋。炊いてよし、蒸してよし、揚げてよしと料理をする者にとってこれほどありがたい食材はない。

ウチの御節料理の煮しめに里芋は絶対に入る。元旦にはねっとり滋味あふれる里芋をつまみ赤ら顔で盃を重ねていることだろう。

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