社の名前は変わっても地元では今も「祇園さん」と呼ばれて親しまれている。参道で商売を続ける「鳴門堂」が最中の名前に旧社の通称を採用した訳だ。
社殿の右手に八幡宮、渡守社、鞆護国神社が並ぶ。せっかくなので境内社について文献の記述を引用しておく。まずは八幡宮から。
沼名前神社の境内に摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神に祀る)として祀られてある八幡神社の祭神は、人皇第一四代の仲哀天皇と、その后であった神功皇后、お二方の御子の第一五代応神天皇と三柱の神といわれる。
続いて渡守(わたす)神社。読者の皆さんの理解が進めば幸いだ。
この社は遠い昔に関町の渡札の辻といわれた場所(現在の岩谷酢造場のあたりか?)に祀られてあったといわれる。鞆では祇園宮(もと疫隅の国社)に次ぐ古い神社で、伝説的には神功皇后が三韓征伐に下向のみぎり、鞆の地に立ち寄られ、渡札わたすふだの辻に海神、大綿津見命をまつり海路の安全を祈られたので、首尾よく目的を果された帰路に再び鞆に上陸されて、戦地で愛用された弓を射る時の一種の武具である稜威いづの高鞆を奉賽のうえ、戦捷(勝ちいくさ)の次第を報告されたと伝えられている。
二千年以上の昔から、鞆に住んでいた人々は、わずかばかりの農耕と漁撈(魚類、貝類、藻類をとること)によって生活を支えていた模様で、海を司どる大綿津見命をまつる渡守神社を、当然のこと崇め祀ったことであろう。古文書によると慶長四年(一五九九)八月二日に、関町一帯を襲った大火のために跡形もなく焼き払われたと伝えている。
その後、芸備の藩主福島正則は、後地うしろぢ麻の谷の鞆祇園宮の境内に、渡守神社と八幡宮の両社を再建され、そのあと水野家三代の勝貞の治政に、麻の谷より現在地の草の谷に全部の社が遷され今日に至ったといわれる。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
社殿の右手に八幡宮、渡守社、鞆護国神社が並ぶ。せっかくなので境内社について文献の記述を引用しておく。まずは八幡宮から。
沼名前神社の境内に摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神に祀る)として祀られてある八幡神社の祭神は、人皇第一四代の仲哀天皇と、その后であった神功皇后、お二方の御子の第一五代応神天皇と三柱の神といわれる。
続いて渡守(わたす)神社。読者の皆さんの理解が進めば幸いだ。
この社は遠い昔に関町の渡札の辻といわれた場所(現在の岩谷酢造場のあたりか?)に祀られてあったといわれる。鞆では祇園宮(もと疫隅の国社)に次ぐ古い神社で、伝説的には神功皇后が三韓征伐に下向のみぎり、鞆の地に立ち寄られ、渡札わたすふだの辻に海神、大綿津見命をまつり海路の安全を祈られたので、首尾よく目的を果された帰路に再び鞆に上陸されて、戦地で愛用された弓を射る時の一種の武具である稜威いづの高鞆を奉賽のうえ、戦捷(勝ちいくさ)の次第を報告されたと伝えられている。
二千年以上の昔から、鞆に住んでいた人々は、わずかばかりの農耕と漁撈(魚類、貝類、藻類をとること)によって生活を支えていた模様で、海を司どる大綿津見命をまつる渡守神社を、当然のこと崇め祀ったことであろう。古文書によると慶長四年(一五九九)八月二日に、関町一帯を襲った大火のために跡形もなく焼き払われたと伝えている。
その後、芸備の藩主福島正則は、後地うしろぢ麻の谷の鞆祇園宮の境内に、渡守神社と八幡宮の両社を再建され、そのあと水野家三代の勝貞の治政に、麻の谷より現在地の草の谷に全部の社が遷され今日に至ったといわれる。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』