寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

医王寺参道の途中にある平賀源内生祠(せいし)

2011年12月30日 | 
福山市鞆町後地の民家の間から細い道が山へ向かってのびている。民家の壁に取り付けられた消火器収納ボックスには江元西町内会と書かれてあった。上り坂は相当急である。私は東広島市の「心臓破りの坂」に匹敵すると思った。

江元西町内会の消火器収納ボックス

平賀源内生祠(石塔と卒塔婆)

しばらくして畑の近くに平賀源内生祠という標識が出ていた。矢印の方向に行くと石塔と卒塔婆があった。

平賀源内生祠の説明文


平賀源内の生祠(県史跡)
 宝暦年間(一七五〇年代)に天下の奇人として知られ、また江戸の人気者であった平賀源内は、一時、鞆江の浦の医王寺参道の旧家、溝川家に逼留して瓦や陶器を焼き、源内焼き‥‥の名と、源内生祀なるものを残して飄然と去ったという……その二百年前後の物語りを知っている人々は、鞆町でも年と共に消えていくようである。
 昭和の初期に、源内の生祠発見!!の情報(発見者=故桑田貞次郎氏)により沼名前神社宮司、金原利通氏が備後史談に取上げ、当時、生祠研究の権威者、加藤玄智博士の証言に依って鞆町役場は主務省に申請し、史蹟名勝地の指定を受ける為に奔走した。ついに、昭和十五年二月に「県史跡」に指定されたのであった。

 鞆に近い香川県志度浦で生まれた平賀源内は、高松藩の足軽、白石茂左衛門の三男に生まれたため、才気煥発の彼は足軽では我慢できず、ついに武家奉公に見切りをつけ、自由の天地を江戸に求めた。
 そして有能な彼は、本草学者として有名になり、狂文戯作者として世に知られ、また本邦電気学の始祖と言われ、他に陶器の製法、源内焼きを編み出すほどの活躍ぶり。それら学識は江戸から長崎に留学して欧洲文明をいち早く身につけたことから生まれたのであった。
 昭和初期のこと、源内生祠のある土地を、溝川家が大阪に転宅するために酒井郵便局長の所有となり、ついで株本岩夫書店の所有となった。………医王寺下の山畠の一隅に在る源内生祠は、夏草の茂る中に埋もれることもあるが、時に奇特な人の奉仕により概ねその周辺は清掃されている。
 源内の指導に依り、約百五十年に亘り代々、栄えたと伝えられる溝川家も、大正の末期に大阪方面に転出された…

 (註)源内生祠=丸い石を三つ積み重ね「地神、荒神、平賀源内神」‥‥と溝川家の人々に唱えさせたという。
 その左側の石標の正面は「南無妙法蓮華経平賀源内神儀」とあり、右側に「宝暦一四年甲申三月七日」左側に慶応四戌辰七月二十八日溝川栄助同茂助同利三郎立之」と刻んである。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

医王寺参道途中にある平賀源内生祠(見下ろした状態)

医王寺仁王門

平賀源内生祠を後にして仁王門前に到着した時には完全に息が上がっていた。医王寺の山号は桃林山である。奉納された大わらじを見て門を潜る。

医王寺仁王門に吊り下げられた大わらじ

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鞆の浦の西町浜通りから江之浦町へ向かう

2011年12月30日 | 
保命酒販売の岡本亀太郎本店を後にし再び西町浜通りに出た。江之浦町会館南の(元蕪屋)胡神社に寄る。

胡神社の注連柱(裏面)

胡神社の石碑(寄付者として大阪市の森下博氏の名がある)

注連柱には森下家一族、大きな石碑には森下博の名が刻まれていた(寄進者)。胡神社前、すなわち東側の敷地(県警待機宿舎や鞆交番)は明治末まで海であった。昭和2年の沼隈郡鞆町の地図からもその痕跡は伺える。

昭和2年の沼隈郡鞆町地図(あき書房による復刻)より西町周辺を拡大

鞆振興事業団が作成した鞆町観光地図より西町周辺を拡大


〔西町〕
慶長年中大崎玄蕃市區改正の時、治所の西に當れるより名く商家最も多し。
〔江ノ浦町〕
鞆の發地である。

『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』

◎渡守
 西町の中にある。もともと渡守大明神はここに祀られてあったが、慶長の町割の時に麻の谷の巽たつみ(南東)の方角に遷宮した。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

渡守神社御旅所

大井戸

私は江ノ浦町から西へ歩いた。渡守神社御旅所の対面辺りに大きな六角形の井戸があった。江之浦バス停まで来たところで原付のオッサンに追い抜かれた。

江之浦町バス停付近

この辺りが昔からの離合箇所である。おっさんのヘルメットの先に小さな石柱が建っているのが見えた。近づいて確認すると案内板が貼り付けてある。ここからが医王寺の参道(明円寺を通るルートとは別)だった。

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福山市三之丸町のキャスパ閉店セール

2011年12月30日 | 日記
福山駅に向かう途中にキャスパの前を通ったら東側の入口付近に閉店セールの看板が出ていた。イズミ時代から慣れ親しんできた者にとってこの商業施設が無くなるのはやはり寂しい。昭和50年代駅前にはデパートがたくさんあり人通りも多かったことをふと思い出した。昭和という時代は益々遠くなる。

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