寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

鞆鍛冶の氏神様・小烏神社(その3)

2011年12月20日 | 
福山市鞆町の小烏神社に初めて参拝する人は「何故小烏という名がついているのか?」と疑問に思ったことだろう。私もそうだった。地名(古戦場になった小烏の森)にちなんでいることは神社側の説明にもあったのだが、表精さんの著述が詳しくて分かりやすいので引用しておこう。

小烏神社周辺の古代の歴史
 …その昔、この一帯の地形が小烏の森と云われるほどの森林地帯であったという。推定四百年ほど昔に鍛冶職の人々によって創めて祀られた鞴の神様を地名に因んで小烏神社と呼びならされたものと思われる。
 鞆の旧記によると、南朝の後醍醐天皇の延元三年(一三三八)の八月十一日のこと。後世の史家が南北朝と名付けたほど、朝廷では二つに分かれて相克の戦乱を引きおこして居り、北朝側が次第に優勢となったとき、その軍の総指揮者は別章で記述した鞆で再挙の軍を起こした足利尊氏であったが、遂に北朝の光明天皇より征夷大将軍に任じられ京都の室町に足利幕府を創設した。
 このとき尊氏の弟の直義は、自分の勢力の外郭にしたい下心から、兄将軍に願出て当時の要職の一つである中国探題に、我が庶子である直冬を補す(役につける)ことを懇望したのであった。
 中国探題とは、中央政権の出先機関として、遠隔の地の政務をとり、訴訟ごとから内乱外寇を鎮定防禦する役目で中国地方に一つしかない重要な、いわば軍政の機関であった。その重職に任じられた足利直冬は京都より大阪に出て、それより海路をとり備後の鞆に到達すると早速大可島(今日の要害)に居城を構えた。
 直冬は政務をとるに当って信賞必罰を旨としたので、備後路一帯の将兵は悉く馳せ参じた。そこで海岸線一帯には旗差物(従者が持つ主人の旗じるし)が風になびき、肥馬は鞆の全域に満ち満ちた……と昔の史家は伝えている。
 一方この情報を諜者によって知った尊氏の執事(参謀)の高師直とその弟の師恭は、最近になって探題の父親、直義と不仲になっていたので、ソレッ!!とばかりに「直冬謀反の兆あり、備後でしきりに徴兵す」と尊氏にざん訴したのだからたまらない。「我が甥ながら不都合である!!打てッ」…と罪もない直冬に追悼の命が下された。

 このとき大可島の直冬も逸早く中央軍の行動を知り、家臣の河尻肥後守幸俊を主将に命じ、副将には磯部左近将監をつけ、八百の手兵で小烏の森に守備の陣を布かせた。だが薬師の峯より攻め下った中央軍千五百の軍勢には衆寡敵せず、わずか半日の戦闘で主将も副将も相次いで討死したので、大可島の直冬は今はこれまでと賊軍の汚名を着せられたまま、海路、九州肥後の国まで落ちのびて行った。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

戦場となった小烏の森

天目一箇神社

参拝を済ませて石畳の通りを西へ進む。私はこの近くで確認しておきたいことがあったのである。

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする