妙蓮寺(みょうれんじ)門前を通過し南に歩いて行くと左手に中央公園と鞆の浦あけぼの会館(旧鞆役場登記所)がある。


会館の前を右折してすぐの所へ小さな石橋が架かっている。鞆町では有名な密語橋(ささやきばし)である。密語という字を当てるといかにも人目を忍ぶ感じが出るから面白いものだ。地元ではささやき橋哀話なるものが語り継がれている。
さゝやき橋 靜觀寺前の石橋に其名をとゞめて居る。昔はこの邊まで海水が灣入してゐて長い橋がかゝり、橋の袂に遊女などが棲んでゐて、往きかふ人の袖をとらへてさゝやいてゐたとのことである。
一説には、應神天皇の十六年に百濟から博士王仁が經典を捧げて来た時に、鞆の驛に江の浦といふ宦妓が居つたのが、武内宦和多利といふ接待の役人と相思の仲となり、毎夜橋上に於て喃々の語を交へてゐたところ、好事魔多く、二人は遂に曠職の罪にとはれた。故に橋の名が起つたのだと。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』



会館の前を右折してすぐの所へ小さな石橋が架かっている。鞆町では有名な密語橋(ささやきばし)である。密語という字を当てるといかにも人目を忍ぶ感じが出るから面白いものだ。地元ではささやき橋哀話なるものが語り継がれている。
さゝやき橋 靜觀寺前の石橋に其名をとゞめて居る。昔はこの邊まで海水が灣入してゐて長い橋がかゝり、橋の袂に遊女などが棲んでゐて、往きかふ人の袖をとらへてさゝやいてゐたとのことである。
一説には、應神天皇の十六年に百濟から博士王仁が經典を捧げて来た時に、鞆の驛に江の浦といふ宦妓が居つたのが、武内宦和多利といふ接待の役人と相思の仲となり、毎夜橋上に於て喃々の語を交へてゐたところ、好事魔多く、二人は遂に曠職の罪にとはれた。故に橋の名が起つたのだと。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』

