美容室隣の胡神社の角を曲がり辻に出た。民芸茶処・深津屋は約170年前に建てられたもの。忍び返し(盗人対策)を鞆町で見られるとは…。以前これと同様のものを音戸町の旧遊廓街周辺で見たことがあった。
太田家住宅本邸と別邸・朝宗亭(国の重要文化財)は人気観光スポットである。これらの建物周辺は江戸情緒が溢れている。
雁木まで下りて鞆のシンボル・常夜燈を撮影。いろは丸展示館はかつての浜蔵を再利用したものである。
横長の岡本家住宅の前を通って西へ進み四つ角に出る道に入る。少し北上した所に保命酒を販売する岡本亀太郎本店はあった。
喉が渇いた私は保命酒手作りアイスキャンディーを買い求め店先の縁台に座った。昔風の冷菓は体のほてりを取ってくれた。私の目じりは余程下がっていたのだろう。次のお客が同じ物を注文していた。
保命酒 約千七百年の昔、功皇后時代に始る。保命酒の起源について次のやうな傳説がある。當時吉備南海邊に、土豪、來熊國造きくまくにつこの祖來破屋子彦男おやこはやしひこをといういふものがあつた。一種の銘酒をつくつたのを、たまゝ功皇后が、筑紫へ下向の途次、この浦へ寄泊されたので献上した。翌春凱旋の時再び奉献したところ、三降酒みつのからもりざけと命名され、彦男に大酒主おおさかぬしの姓を賜はつた。
三降酒は、俗にトモノリ酒ともいつてゐたが、保命延壽の効かあるとのことで、何時の頃からか保命酒と呼ぶやうになつた。
降つて徳川時代になつて、延寳元年に幕府が酒造株の制度を設けた。この時釀造權は生玉いくたま堂中村氏の手に入り、稀代の珍品として聲價高まり、家門が非常に榮えた。
中村氏の家傳によれば、萬治年間、大阪生國魂いくくにたま社の側から鞆に移つて、保命酒を創めてつくつた。故に屋號を生玉堂といふのだと、果して何れか。
保命酒は、地黄劑じわうざいを主にし、他に芳香健胃の藥種十六味を調和して居るので、十六味地黄保命酒と稱し來つたものである。
舊幕時代は、國産として備後表と共に一種の官營となり、山藩からは年々朝廷や幕府への献上品に用ひられ、江戸の藩邸では、藩吏が正服をつけて公賣し、大名や旗本等の贈答品として廣く賞用されたものである。尚月卿雲客詩人墨客等非常に之を珍重し、その容器の備前燒も亦鍾愛された。
現今、販路が非常に廣く、海外へも盛んに輸出せられる。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』
太田家住宅本邸と別邸・朝宗亭(国の重要文化財)は人気観光スポットである。これらの建物周辺は江戸情緒が溢れている。
雁木まで下りて鞆のシンボル・常夜燈を撮影。いろは丸展示館はかつての浜蔵を再利用したものである。
横長の岡本家住宅の前を通って西へ進み四つ角に出る道に入る。少し北上した所に保命酒を販売する岡本亀太郎本店はあった。
喉が渇いた私は保命酒手作りアイスキャンディーを買い求め店先の縁台に座った。昔風の冷菓は体のほてりを取ってくれた。私の目じりは余程下がっていたのだろう。次のお客が同じ物を注文していた。
保命酒 約千七百年の昔、功皇后時代に始る。保命酒の起源について次のやうな傳説がある。當時吉備南海邊に、土豪、來熊國造きくまくにつこの祖來破屋子彦男おやこはやしひこをといういふものがあつた。一種の銘酒をつくつたのを、たまゝ功皇后が、筑紫へ下向の途次、この浦へ寄泊されたので献上した。翌春凱旋の時再び奉献したところ、三降酒みつのからもりざけと命名され、彦男に大酒主おおさかぬしの姓を賜はつた。
三降酒は、俗にトモノリ酒ともいつてゐたが、保命延壽の効かあるとのことで、何時の頃からか保命酒と呼ぶやうになつた。
降つて徳川時代になつて、延寳元年に幕府が酒造株の制度を設けた。この時釀造權は生玉いくたま堂中村氏の手に入り、稀代の珍品として聲價高まり、家門が非常に榮えた。
中村氏の家傳によれば、萬治年間、大阪生國魂いくくにたま社の側から鞆に移つて、保命酒を創めてつくつた。故に屋號を生玉堂といふのだと、果して何れか。
保命酒は、地黄劑じわうざいを主にし、他に芳香健胃の藥種十六味を調和して居るので、十六味地黄保命酒と稱し來つたものである。
舊幕時代は、國産として備後表と共に一種の官營となり、山藩からは年々朝廷や幕府への献上品に用ひられ、江戸の藩邸では、藩吏が正服をつけて公賣し、大名や旗本等の贈答品として廣く賞用されたものである。尚月卿雲客詩人墨客等非常に之を珍重し、その容器の備前燒も亦鍾愛された。
現今、販路が非常に廣く、海外へも盛んに輸出せられる。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』