鞆の浦振興事業団が作成した地図では法宣寺を「治病除災の神として武将・加藤清正の像が祀られている / 日蓮宗」と簡単に紹介している。「清正となぜ関係があるのだろうか」と疑問に思った方も多いだろうから『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』の詳細な記述を引用させてもらおう。
お祀りしてある本尊は釈迦牟尼仏である。延文三年(一三五八)に大覚大僧正が創建した寺と言われる。大覚大僧正は、京都の妙願寺の開山で、この寺はその末寺となっている。北朝の後光巌院の綸命(天皇の命令)により三万部の法華経を読誦し、なお四海に普く法華経を布教する旨を蒙ったので、先ず布教の地を三備(備前・備中・備後)に求めようと、延文三年の春に鞆に上陸したのであった。
鞆の地で現在地をえらんで、貴賎にかかわらず広く大衆を集めて説法し、かたわら天下の安穏を祈った。当時は西日本の法華弘通では最初の道場であったので大法華堂と称えていた。それが天文年間(一五三二 一五五四)に惜しくも火災で消失した。
寛永の末(一六四三年ごろ)、第一七代に当る人、日宥律師が中興されたのであった。当寺について記録に価するものが三つある。その一つは寛政六年(一七九四)に刻んだ門前の大法華堂の石碑で裏の銘には寺歴の概要を…刻んでいる。
今一つは境内の一隅に寺には全たく縁故のない清正堂が祀られている。この堂内には加藤清正の自作と言われる木像が安置されてある。
もと熊本城内にあったが、加藤家没落後に江戸の富士の山後殿に移され、たまたま明治の始め、三条公爵の息、上田御前といわれる人が鞆に流寓して居たころ、斡旋して鞆に運こび当寺に収めた。
最後の一つは当時の誇る大覚大僧正手植えの松である。樹齢六二〇年以上と言われる大松は「天蓋の松」と名付けられて居り広島県の指定する天然記念物となっている。
胸高周囲三・九米、樹高五・四米、地上一・六米の位置から二枝に分かれて四方にひろがり樹冠一八〇坪と言われる世にも珍しい松の大木は、鞆を訪れる旅人の目を楽しませている。 文献 沼隈郡誌
天蓋の松(てんがいのまつ)は残念なことに私が大学を卒業した年に枯れたそうである。大松があった場所(大法華堂の手前)にはその歴史を説明するプレートが設置されている。

寺を出て更に南へ向かう。私は鞆小学校へ上がる坂道を一瞥して「この先だな」と呟いた。少し行くと寺町通りから道が枝分かれするところに井戸(手押しポンプ)があり、水神様が祀られていた。こういう物が残っているのが鞆の魅力だ。

お祀りしてある本尊は釈迦牟尼仏である。延文三年(一三五八)に大覚大僧正が創建した寺と言われる。大覚大僧正は、京都の妙願寺の開山で、この寺はその末寺となっている。北朝の後光巌院の綸命(天皇の命令)により三万部の法華経を読誦し、なお四海に普く法華経を布教する旨を蒙ったので、先ず布教の地を三備(備前・備中・備後)に求めようと、延文三年の春に鞆に上陸したのであった。
鞆の地で現在地をえらんで、貴賎にかかわらず広く大衆を集めて説法し、かたわら天下の安穏を祈った。当時は西日本の法華弘通では最初の道場であったので大法華堂と称えていた。それが天文年間(一五三二 一五五四)に惜しくも火災で消失した。
寛永の末(一六四三年ごろ)、第一七代に当る人、日宥律師が中興されたのであった。当寺について記録に価するものが三つある。その一つは寛政六年(一七九四)に刻んだ門前の大法華堂の石碑で裏の銘には寺歴の概要を…刻んでいる。
今一つは境内の一隅に寺には全たく縁故のない清正堂が祀られている。この堂内には加藤清正の自作と言われる木像が安置されてある。
もと熊本城内にあったが、加藤家没落後に江戸の富士の山後殿に移され、たまたま明治の始め、三条公爵の息、上田御前といわれる人が鞆に流寓して居たころ、斡旋して鞆に運こび当寺に収めた。
最後の一つは当時の誇る大覚大僧正手植えの松である。樹齢六二〇年以上と言われる大松は「天蓋の松」と名付けられて居り広島県の指定する天然記念物となっている。
胸高周囲三・九米、樹高五・四米、地上一・六米の位置から二枝に分かれて四方にひろがり樹冠一八〇坪と言われる世にも珍しい松の大木は、鞆を訪れる旅人の目を楽しませている。 文献 沼隈郡誌
天蓋の松(てんがいのまつ)は残念なことに私が大学を卒業した年に枯れたそうである。大松があった場所(大法華堂の手前)にはその歴史を説明するプレートが設置されている。

寺を出て更に南へ向かう。私は鞆小学校へ上がる坂道を一瞥して「この先だな」と呟いた。少し行くと寺町通りから道が枝分かれするところに井戸(手押しポンプ)があり、水神様が祀られていた。こういう物が残っているのが鞆の魅力だ。

