鳥居を抜けると「天開神武樹元 地與人文増氣象」と書かれた立派な注連柱が現れる。これは地元の有力者・林半助氏(鞆軽便鉄道株式会社初代社長)が建てたものである。私は境内へ足を進めて神社の祭神に関する説明に目を通した。
鞆軽便鉄道の登場
…鞆の旧家や資産家たちは、明治の初期から中期にかけて次々と没落するという悲運に見舞われた。そしてあれほど殷賑を極めた出船、入船はもう千石船の影もなく、小船がようやく出入する程度で、曽っての汐待ちの言葉も鞆女郎の廃れと共に消えていった。
そのような日蔭の鞆を支えたものは、鞆鉄鋼と鞆漁業の台頭であった。言わば過去の鞆は商業中心の大商人に付随した従順な家僕であり、蔵人であり、仲仕であった。それが鉄鋼と言い漁業と言い、小資本のもとで働く一人一人は、自らを開拓するという気風が湧然と湧き上がった。…
…鞆産業の振興を意図の下に立ち上がった鉄道敷設の発起人たちが、鉄道事業の免許を獲得したのは明治四十三年九月五日であった。山陽線が福山駅、尾道間を開通した日から数えて一八年と一〇ケ月を経過していたのである。そして林半助(二代目)を初代社長に仰いで鉄道事業は遂に発足した。大正二年十一月十七日のことである。全線一〇、七キロの鞆、野上間に軌条間隔は、二、六フィートと言った狭軌のものであったが、一日七往復の運転は沿線の人々に多大の恩恵を与え、永年沈滞していた鞆産業界に活気を与えた。
それまで鞆町民は、福山城下町に出かけるには、三里の道を三時間がかりで歩いた。魚荷たちは車力によって荷台に魚を乗せて三里の道も遠しとせず、毎日車夫のように走りまくっていた。その路線に軽便鉄道が敷設されたのである。鞆、田尻、水呑、福山城下町の住民はどれほど利便を感じたことか?それは当時の人々でなければ味えぬ実感であろう。
当初、鞆野上間の大人の片道運賃は二〇銭で、米一升が一七銭、一日の労働賃が平均一円程度の時代であるから労賃に比べると決して安い汽車賃ではなかった…
鞆軽便鉄道株式会社が大正二年に設立の資本は二〇万円(今日で約六億円)であった。次いで大正一五年一二月には鞆鉄道株式会社と社名は変更された。創立以来三〇年を経過する頃には、軌条を走る一定路線より、縦横に走るバスが世人に利用されるようになり、約五年間に亘る赤字経営を断ち切るために鉄道事業は発展的に廃止されバス事業に切替えたのは、創立三代目に当る林公三郎社長の一大英断であった。昭和二十九年三月のことである。
祭神と鞴のいわれ
小烏神社の祭神は天目一箇神あめのまひとつのかみと言われる。古代に鍛冶を司どった神と仰がれ、また別名で鞴ふいごの神様とも崇められた。…
天目一箇神が、別名鞴の神と云われる所以は、一箇神が鉄を鍛える火床ほどに風をおくるために、長方形の箱を考案し、横下に穴を設け、箱の中に間仕切のような板を入れ、それに柄を取付けて箱の外に出し、その端に引手を付けて前後に押し引きして見たが思うほどの風が横穴に出て来ない。箱の周囲には空気が漏れぬよう土で目張りしても駄目であった。さまざま鞴の工夫にもて余していたところ、天より降るように飛びこんで来た一匹の狸が箱の中にスーと引き込まれるように姿を消してしまった。
その出来ごとにハット気付いた一箇神は、そうだ間仕切の周囲を狸の毛皮で巻いて、箱内に入れる空気と、横下穴に押出す空気をよろしく調節すれば、火床に炭火をおこす風が送れる!!………そのように考えた一箇神は、天啓の狸の皮を求めて狩猟に出かけた。間もなくその毛皮をもって完全な鞴を考案された。鞴という字は革を備えると書く。それにつき、妙な話がある。それは、不思議にも、狸の毛皮以外の皮は鞴づくりには向かないことである。…
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
![小烏神社の祭神等についての説明(神社境内)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ba/1dcc682393c84059de0a199796068526.jpg)
鞆軽便鉄道の登場
…鞆の旧家や資産家たちは、明治の初期から中期にかけて次々と没落するという悲運に見舞われた。そしてあれほど殷賑を極めた出船、入船はもう千石船の影もなく、小船がようやく出入する程度で、曽っての汐待ちの言葉も鞆女郎の廃れと共に消えていった。
そのような日蔭の鞆を支えたものは、鞆鉄鋼と鞆漁業の台頭であった。言わば過去の鞆は商業中心の大商人に付随した従順な家僕であり、蔵人であり、仲仕であった。それが鉄鋼と言い漁業と言い、小資本のもとで働く一人一人は、自らを開拓するという気風が湧然と湧き上がった。…
…鞆産業の振興を意図の下に立ち上がった鉄道敷設の発起人たちが、鉄道事業の免許を獲得したのは明治四十三年九月五日であった。山陽線が福山駅、尾道間を開通した日から数えて一八年と一〇ケ月を経過していたのである。そして林半助(二代目)を初代社長に仰いで鉄道事業は遂に発足した。大正二年十一月十七日のことである。全線一〇、七キロの鞆、野上間に軌条間隔は、二、六フィートと言った狭軌のものであったが、一日七往復の運転は沿線の人々に多大の恩恵を与え、永年沈滞していた鞆産業界に活気を与えた。
それまで鞆町民は、福山城下町に出かけるには、三里の道を三時間がかりで歩いた。魚荷たちは車力によって荷台に魚を乗せて三里の道も遠しとせず、毎日車夫のように走りまくっていた。その路線に軽便鉄道が敷設されたのである。鞆、田尻、水呑、福山城下町の住民はどれほど利便を感じたことか?それは当時の人々でなければ味えぬ実感であろう。
当初、鞆野上間の大人の片道運賃は二〇銭で、米一升が一七銭、一日の労働賃が平均一円程度の時代であるから労賃に比べると決して安い汽車賃ではなかった…
鞆軽便鉄道株式会社が大正二年に設立の資本は二〇万円(今日で約六億円)であった。次いで大正一五年一二月には鞆鉄道株式会社と社名は変更された。創立以来三〇年を経過する頃には、軌条を走る一定路線より、縦横に走るバスが世人に利用されるようになり、約五年間に亘る赤字経営を断ち切るために鉄道事業は発展的に廃止されバス事業に切替えたのは、創立三代目に当る林公三郎社長の一大英断であった。昭和二十九年三月のことである。
祭神と鞴のいわれ
小烏神社の祭神は天目一箇神あめのまひとつのかみと言われる。古代に鍛冶を司どった神と仰がれ、また別名で鞴ふいごの神様とも崇められた。…
天目一箇神が、別名鞴の神と云われる所以は、一箇神が鉄を鍛える火床ほどに風をおくるために、長方形の箱を考案し、横下に穴を設け、箱の中に間仕切のような板を入れ、それに柄を取付けて箱の外に出し、その端に引手を付けて前後に押し引きして見たが思うほどの風が横穴に出て来ない。箱の周囲には空気が漏れぬよう土で目張りしても駄目であった。さまざま鞴の工夫にもて余していたところ、天より降るように飛びこんで来た一匹の狸が箱の中にスーと引き込まれるように姿を消してしまった。
その出来ごとにハット気付いた一箇神は、そうだ間仕切の周囲を狸の毛皮で巻いて、箱内に入れる空気と、横下穴に押出す空気をよろしく調節すれば、火床に炭火をおこす風が送れる!!………そのように考えた一箇神は、天啓の狸の皮を求めて狩猟に出かけた。間もなくその毛皮をもって完全な鞴を考案された。鞴という字は革を備えると書く。それにつき、妙な話がある。それは、不思議にも、狸の毛皮以外の皮は鞴づくりには向かないことである。…
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
![小烏神社の祭神等についての説明(神社境内)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ba/1dcc682393c84059de0a199796068526.jpg)
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