円窓が印象的な日本家屋を過ぎた辺りがごみ置場である。その看板から旧東新地は東元町と呼ばれていることを悟る。通りが不自然に広いのは昔桜並木でもあったのだろうか(実際遊里に桜はつきものだった)

国道1号線に向かっていると左手に小さな祠があった。東元町(東新地)出世地蔵・水子地蔵の由緒書にはこう記されていた。

東元町(東新地)出世地蔵・水子地蔵
今から九十年程前、現在の国道一号線を敷設する工事の際土の中から二体のお地蔵さまが出てこられました。
「出世地蔵」は当時、歓楽街として繁盛していた東新地の皆さんが祭ったもので、遊女が年季奉公から一日でも早く抜け出せるよう祈願したのが始まりと考えられます。
また「水子地蔵」は安産や不幸にもこの世に生を授かることができなかった子供の供養を願う人たちが祭ったものです。
現在は東元町町内会の「守り本尊」として皆に拝められています。
そして由緒書の上には大正13年(1924)8月吉日に東新地・東樓の主が奉納した御籤の額が掲げられていた。正確には籤という字は使われておらず、門(もんがまえ)に亀(かめの旧字体)で、これで「くじ」と読む。お堂の外に打ち付けられた町内会住宅地略図(平成13年4月現在)を参考にすれば東樓は煙草屋の近くにあったことになる。

私は地蔵に手を合わせ願い叶わず旅立った者達の冥福を祈り「自分の思い通りにはならぬのが人生か…」と囁いた。



国道1号線に向かっていると左手に小さな祠があった。東元町(東新地)出世地蔵・水子地蔵の由緒書にはこう記されていた。

東元町(東新地)出世地蔵・水子地蔵
今から九十年程前、現在の国道一号線を敷設する工事の際土の中から二体のお地蔵さまが出てこられました。
「出世地蔵」は当時、歓楽街として繁盛していた東新地の皆さんが祭ったもので、遊女が年季奉公から一日でも早く抜け出せるよう祈願したのが始まりと考えられます。
また「水子地蔵」は安産や不幸にもこの世に生を授かることができなかった子供の供養を願う人たちが祭ったものです。
現在は東元町町内会の「守り本尊」として皆に拝められています。
そして由緒書の上には大正13年(1924)8月吉日に東新地・東樓の主が奉納した御籤の額が掲げられていた。正確には籤という字は使われておらず、門(もんがまえ)に亀(かめの旧字体)で、これで「くじ」と読む。お堂の外に打ち付けられた町内会住宅地略図(平成13年4月現在)を参考にすれば東樓は煙草屋の近くにあったことになる。

私は地蔵に手を合わせ願い叶わず旅立った者達の冥福を祈り「自分の思い通りにはならぬのが人生か…」と囁いた。


