寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

三原城跡発掘調査現地説明会に参加(その2)

2013年03月04日 | 
JR山陽本線・三原駅を出て館町1丁目に向かう。本丸の北東・内堀のそばに三原城址を示す石碑と説明板が立っている。

三原城址を示す石碑

国史跡
小早川氏城跡三原城跡
昭和三十二年十二月十一日指定
所在 三原市 館町・本町・城町

 三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄十年(一五六七)沼田川の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正十年(一五八二)前後と、慶長元年(一五九六)のころ偉容を整えたといわれる。
 城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。
 小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治二十七年(一八九四)六月には、三原駅が開業した。
 今では、市街化がすすみ、天主台とそれをめぐる濠、船入跡、船入櫓跡及び本丸中門跡を残すのみである。

三原市教育委員会

小早川氏城跡三原城跡の説明(三原市教育委員会)

本丸の上に新幹線の高架が建設された事例は全国でも稀である。駅南口から北方を見て城があったことに気付く部外者はそうはいないはずだ。街の発展のために城が犠牲になったことは残念という他ない。

JR三原駅北口(三原市館町)

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福山市南蔵王町1丁目の惣戸神社(後編)

2013年03月04日 | 郷土史
惣戸神社の住所は南蔵王町1丁目15‐1。社殿は福山楽器センターから南へ約70mの位置にある。近頃、市村育ちの女性から「終戦後そうどうさんの境内で踊りの練習をしていた」という話を聞いた。祭神については知らないそうだが、実は文献でも色んな説がある。代表的なものを紹介しておこう。

惣戸神社の社殿

 丘の上に祠が祀ってあることはよくあることで、もやい石の横の石段を上ってみると、東向きの中規模の社殿が建っています。地元の神社総代土屋さんの話は次のようでした。
 ○祭神は早良(さわら)親王(七五〇~七八五)。
 皇太子の早良親王は、兄、桓武天皇とのトラブルで淡路に流され、途中絶食して死去しました。…その悲運を思い、怨霊を恐れ(関係者に多々不幸があった)、京都の上御霊(かみごりょう)神社に祀り崇道天皇と追号しました。延暦一九年(1100)でした。備後の地に早良親王を祀るに至った経緯はわかりません。親王の悲運と騒動を鎮め祀るためにか、惣戸(そうど)と社号し、上御霊神社の分霊を勧請(かんじょう)したと伝えています。
 一説に、惣戸八幡神社といったともいいます。のち八幡神社は東へ一kmの通称宮の前に移ったそうです。惣戸神社の氏子は蔵王町一円です。

(さらに異説)三嶋大明神 綱木に足利義昭卿を祀る祠があった。(福山志料‐菅茶山編著 文化六年 一八〇九)

『続深津島山 ‐孝現学序の段‐ / 佐野恒男(平成十年)』

惣戸神社 五区 綱木
 惣戸神社は三島大明神とも称せらる。…古来より海上守護神として信仰された。綱木と深津の境の惣戸神社も古く船着場があったことから,出入りする船の守護神としてまつられたものである。海が干拓により陸地化してからは農業神としてあがめられた。

 惣戸神社の社殿は,1985年(昭和60年)に改築された。

『蔵王(市村)史跡めぐり / 蔵王郷土史研究会(平成8年10月)』

惣戸神社境内の祠

社殿から少し離れた祠の横道を上ると近畿中国四国農業研究センターの圃場がよく見える。深津高地はすっかり変わってしまったが、こちらは昭和40年代末の風景を留めている。その所為かここに立つ時は妙にほっとするのだ。

惣戸神社近くから深津高地を望む
 
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