今から20年ほど前の広島県東部の学校教育は酷いものだった。学校の序列化を無くすために総合選抜制度が導入され、かつての旧制中学に著しいレベルとモラルの低下が生じ、世間からはレジャーランド高校と揶揄された。
偏向教育をゴリ押ししたのは旧斜界党から出たKという代議士だった。バックに怪童をつけ、日狂組と手を結んで、やりたい放題だった。「俺達の痛みを貴様らも理解せよ」という身勝手な振る舞いに拒絶反応が起きたのは当然である。
その後Kは関西の恫喝団体本部から破門されて金のバッチも失った。教育界の再生はここから始まったといってよい。民間から校長を招いて改革を行った母校は以前の威光を取り戻しつつある。
私にとって高校は暗黒の3年であった。垢教師のえげつないやり方に対して真っ向から反論して袋叩きにあった生徒はヒーローになった。愚かしい者に権力を与えるとどうなるか、ということを嫌になるほど見せてもらった。
縁故関係で市の職員になったり、教師になるシステムは根本から壊さなければならない。人権を謳う輩が実は人権侵害をしている滑稽さ。それを報道しないメディア。この問題を激しく追及しているのは共産党だけであるw
偏向教育をゴリ押ししたのは旧斜界党から出たKという代議士だった。バックに怪童をつけ、日狂組と手を結んで、やりたい放題だった。「俺達の痛みを貴様らも理解せよ」という身勝手な振る舞いに拒絶反応が起きたのは当然である。
その後Kは関西の恫喝団体本部から破門されて金のバッチも失った。教育界の再生はここから始まったといってよい。民間から校長を招いて改革を行った母校は以前の威光を取り戻しつつある。
私にとって高校は暗黒の3年であった。垢教師のえげつないやり方に対して真っ向から反論して袋叩きにあった生徒はヒーローになった。愚かしい者に権力を与えるとどうなるか、ということを嫌になるほど見せてもらった。
縁故関係で市の職員になったり、教師になるシステムは根本から壊さなければならない。人権を謳う輩が実は人権侵害をしている滑稽さ。それを報道しないメディア。この問題を激しく追及しているのは共産党だけであるw

中区袋町のまちづくり市民交流プラザの4階で展示会が行なわれている。11月4日が最終日(10時から18時まで)。
敗戦色が濃厚となった時期の展示品は特に見ておく価値がある。虎の模様の千人針、防空頭巾にもんぺ、防空壕の写真、米軍が撒いたビラなど。
昭和19年から20年にかけて全国の主要な都市は無差別爆撃によって壊滅的な打撃を受け、多くの死傷者を出した。薄汚れた戦災孤児が靴磨きをして生計をたてる写真は考えさせられる。絶望の中でも必死になって生きようとするたくましい姿、これが日本を急速に復興させた原動力だったのだと思う。
戦前の教育はすべて悪いという「短絡的かつ病的な極左思想」や「愛と平和という安っぽい理想」だけでは正しい歴史認識は生まれない。戦争に負けたからといって品格やプライドまで捨てることはなかったのではないか。

市民交流プラザの入口付近に旧元安橋の欄干が墓石の如く置かれている。原爆の凄まじい威力によって落下し、これは元安川から引きあげたものである。

大手町平和ビルの7・8階に広島市公文書館はある。土日は休館日だが、祭日の今日は講演会があった。エレベーターで5階に上がった。館長の話では「定員を超える申し込みがあった」ということである。
会場は年配の方が多かった。講師の杉本俊多さんはドイツ近代建築の研究では第一人者で、母校工学部の教授でもある。本題に入る前の雑談で、明治初期、産業奨励館のあった場所に木造5階建ての牛鍋屋【五階楼】が存在したことに触れ聴衆は驚いていた。
江戸時代の城下町地図を見ながらの解説は分かりやすく、益々興味がわいた。歓楽街「流川」が昔はれっきとした川であった、本川は元々人工的に造った川(堀)だった、現在の鯉城通りは西堂川(堀幅約20m)を埋め立ててできたことを知った。
大正期まで広島最大の歓楽街だった「中島」は原爆で跡形もなく消え今は平和公園になっているが、江戸時代中期、ここに町人が住み着いて「活気ある町」が形成されていたと説明を受けた。
本川と元安川に挟まれたデルタ地帯「中島」とサント・ペテルブルクがダブって見えるという指摘は大変面白い。現在の写真や古地図を見ると大手町筋とボリショイ(=大きいという意味w)通りは確かに似ている。ピオトル大帝が採用した「堀割り」の技術はオランダで発展したものだ。
城下町形成(都市計画)はあらゆる知力を集結させた一つの芸術であると言えるかもしれない。残念なことに、日本人は古い物を破壊することにあまり痛みを感じない(自分の暮らす街に誇りが持てない)ので、ほとんど保存されていない。これがヨーロッパとの大きな違いである。
杉本先生のおかげで有意義な2時間を過ごすことができた。今までの見慣れた鯉城通りを昔は船が行き来していたことを思い浮かべながら、袋町まで歩いた。

