寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市鞆町後地のささやき橋にまつわる哀話 

2011年12月25日 | 
妙蓮寺(みょうれんじ)門前を通過し南に歩いて行くと左手に中央公園と鞆の浦あけぼの会館(旧鞆役場登記所)がある。

鞆の浦あけぼの会館(旧鞆役場登記所)

密語橋(ささやきばし)の手前から鞆の浦あけぼの会館を望む

会館の前を右折してすぐの所へ小さな石橋が架かっている。鞆町では有名な密語橋(ささやきばし)である。密語という字を当てるといかにも人目を忍ぶ感じが出るから面白いものだ。地元ではささやき橋哀話なるものが語り継がれている。

さゝやき橋 靜觀寺前の石橋に其名をとゞめて居る。昔はこの邊まで海水が灣入してゐて長い橋がかゝり、橋の袂に遊女などが棲んでゐて、往きかふ人の袖をとらへてさゝやいてゐたとのことである。
 一説には、應神天皇の十六年に百濟から博士王仁が經典を捧げて来た時に、鞆の驛に江の浦といふ宦妓が居つたのが、武内宦和多利といふ接待の役人と相思の仲となり、毎夜橋上に於て喃々の語を交へてゐたところ、好事魔多く、二人は遂に曠職の罪にとはれた。故に橋の名が起つたのだと。

『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』

妙蓮寺脇にある密語橋(ささやきばし)

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我が家の関東煮(前編)

2011年12月25日 | 食材
ウチの関東煮(かんとだき)は牛の肺臓のみで作る。大鍋に湯を沸かし一口大に切った肺臓を放り込む。大量に出るアクを丁寧にすくい取るのがポイントだ。

肺臓をボイルして水洗いした状態

冷水で汚れを落としザルに移してよく水を切る。串に肺を刺して下拵えは終わり。1本当たり80gが目安だ。

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念願の沼名前神社参拝を果たす(後編)

2011年12月24日 | 
社の名前は変わっても地元では今も「祇園さん」と呼ばれて親しまれている。参道で商売を続ける「鳴門堂」が最中の名前に旧社の通称を採用した訳だ。

八幡宮(左)と渡守社(右)

社殿の右手に八幡宮、渡守社、鞆護国神社が並ぶ。せっかくなので境内社について文献の記述を引用しておく。まずは八幡宮から。

 沼名前神社の境内に摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神に祀る)として祀られてある八幡神社の祭神は、人皇第一四代の仲哀天皇と、その后であった神功皇后、お二方の御子の第一五代応神天皇と三柱の神といわれる。

続いて渡守(わたす)神社。読者の皆さんの理解が進めば幸いだ。

 この社は遠い昔に関町の渡札の辻といわれた場所(現在の岩谷酢造場のあたりか?)に祀られてあったといわれる。鞆では祇園宮(もと疫隅の国社)に次ぐ古い神社で、伝説的には神功皇后が三韓征伐に下向のみぎり、鞆の地に立ち寄られ、渡札わたすふだの辻に海神、大綿津見命をまつり海路の安全を祈られたので、首尾よく目的を果された帰路に再び鞆に上陸されて、戦地で愛用された弓を射る時の一種の武具である稜威いづの高鞆を奉賽のうえ、戦捷(勝ちいくさ)の次第を報告されたと伝えられている。
 二千年以上の昔から、鞆に住んでいた人々は、わずかばかりの農耕と漁撈(魚類、貝類、藻類をとること)によって生活を支えていた模様で、海を司どる大綿津見命をまつる渡守神社を、当然のこと崇め祀ったことであろう。古文書によると慶長四年(一五九九)八月二日に、関町一帯を襲った大火のために跡形もなく焼き払われたと伝えている。
 その後、芸備の藩主福島正則は、後地うしろぢ麻の谷の鞆祇園宮の境内に、渡守神社と八幡宮の両社を再建され、そのあと水野家三代の勝貞の治政に、麻の谷より現在地の草の谷に全部の社が遷され今日に至ったといわれる。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

鞆護国神社

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念願の沼名前神社参拝を果たす(前編)

2011年12月24日 | 
二の鳥居から随神門を抜け長い石段をえっちらほっちら上る。大きな注連柱の奥に見えるのが沼名前神社の社殿(火災で焼失後再建された)である。

沼名前神社の注連柱と社殿

沼名前神社の注連柱裏面

柱の裏には大坂屋萬右衛門(鞆の大富豪)、八籠屋與一郎の名が刻まれている。福山市の歴史ある神社に参拝できたことは大きな喜びであった。

 …ここは本来、須佐之男命(スサノオノミコト)を祀る祇園社(ぎおんしゃ)だったのですよ。
 中世から明治維新の頃まで、備後の国の三祇園=鞆祇園社・小童(ひち)祇園社〈現、三次市甲奴町小童の須佐神社〉・戸手天王社(とでてんのうしゃ)〈現、福山市新市町戸手の素盞嗚(すさのお)神社〉=の中で最も栄えた鞆祇園社として崇敬を集めた神社だったのですが、明治維新の神仏分離令によって、祇園社という名称が仏教的だとされ、改称を政府から命じられたのです。
 そこで、幕末から全国的に格式が高いと再評価されていた延喜式内社(えんぎしきないしゃ)の沼名前(ぬなくま)神社に名前を変えました。
 そして、それまで境内の小宮として祀られてきた渡守(わたす)神社の祭神である海の神様、大綿津見命(オオワタツミノミコト)が沼名前神社の主祭神として迎えられ、祇園社の須佐之男命とともに本殿に祀られているのです。

『日本の宝 鞆の浦を歩く / 三浦正幸(南々社 二〇一〇年)』

ドイツのクルップ砲

社務所の隣に錆びた大砲を見つけた私は「こいつは珍しい」と言って飛び跳ねた。銘板を見るまでもなくドイツのクルップ社が製造したものであることは分かった、中学卒業までタミヤのMMシリーズを作っていたお陰で(笑)

クルップ砲の銘板を拡大

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福山市鞆町後地の和菓子屋・鳴門堂

2011年12月23日 | 
鞆銀座に鳴門堂という名の和菓子屋がある。食べることが大好きな男は迷うことなく店に入った。そして奥さんに商品を説明してもらいおやつに最中「お祇園さん」を買った。

黒ごま最中・お祇園さん

黒ごま餡は珍しいと思ったのだ。ごまの風味が豊かで程よい甘さである。町歩きの途中に糖分を補給して俄然元気になった。

黒ごま最中で糖分補給

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食べられる牛の肺臓

2011年12月23日 | 食材
生の牛の肺臓は肝臓(レバー)よりも綺麗である。価格は100グラム当たり40円程度と安い。見た目が強烈なため扱う店は少なくて店頭に並んだのを見つけた時には必ず買う、備後地方の関東煮(かんとだき)を作るために。

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かつて鞆銀座と呼ばれた沼名前神社の参道

2011年12月22日 | 
鍛冶町から祇園町へ入る。沼名前(ぬなくま)神社の一の鳥居前で私は思わず息をのんだ。何という迫力と美しさであろう。鳥居から草の谷に鎮座する神社(祇園さん)までの奥行き感は現地に行った者しか分からないと思う。

祇園さんの参詣道は以前鞆銀座と呼ばれていたそうで輝かしい時代を象徴する味のある町家が建ち並んでいた。建築好きの人間にとって鞆の観光には最低半日は欲しいところだ。

祇園町
 鞆祇園社への參詣道に沿ふた町家である。

『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』

沼名前神社の一の鳥居を過ぎた辺りに建つ町家

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冬至に飲む南京(かぼちゃ)汁

2011年12月22日 | 家飯
冬至に南京(かぼちゃ)はつき物である。南京の味噌汁を飲むと風邪を引かずに過ごせるという言い伝えがあり我が家でもずっと作っている。

南京は栄養豊富なので風邪予防にはいくらか効果はあろう。温かくて美味しい料理は結局体にもいいのだ。

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福山市鞆町の石畳の路地

2011年12月21日 | 
石畳の路地を歩くのは気持ちがいいものである。明治時代に建てられた林家住宅(豪商)は巨大で見る者を釘付けにしてしまう。路地はこの先でクランクとなる。

石畳の路地(クランクになる場所を撮影)

そのまま西へ進むと右手に酒屋が見えた。鞆の古図(1650年頃)には小烏神社境内の西方及び善行寺(ぜんぎょうじ)の南に在番小屋が描かれている。酒屋の建つ辺りに獄舎(=牢屋)があったと人伝に聞いていたので私は目を細めてかつての情景を想像した。

◎在番小屋
 水野家の代より、阿部家初代の正邦まで福山より在番が設うけられてあった。明円寺の脇に一ケ所、静観寺の前に一ケ所、原に一ケ所あったが、二ケ所は廃止された。尚、御水主かこ長屋が在番小屋の中に一ケ所あった。後藤新八奉行の時まで御水主捨人を置かれたが、御通船の御用、その外御船御用のある場合は、福山御船手が兼務された。

◎牢屋
 善行寺のあたりにあった。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年))』

江戸時代在番小屋があった辺り(酒屋を含める)

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超簡単!電子レンジで作る蒸しガキ

2011年12月21日 | 食材
殻つきカキを家で焼くと弾けて後片付けが大変。そう思う人におすすめしたい食べ方が蒸しガキだ。大皿に殻つきカキを並べてラップをしてレンジでチンするだけ。

加熱時間は1分20秒前後、殻が開き始めた時点を目安とする。海水の塩分が調味料となる蒸しガキはあっさりしているからたくさん食べられる。私はこの簡単な調理法を北関東で習得した。もちろん教えてくれたのは広島県人である。

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鞆鍛冶の氏神様・小烏神社(その3)

2011年12月20日 | 
福山市鞆町の小烏神社に初めて参拝する人は「何故小烏という名がついているのか?」と疑問に思ったことだろう。私もそうだった。地名(古戦場になった小烏の森)にちなんでいることは神社側の説明にもあったのだが、表精さんの著述が詳しくて分かりやすいので引用しておこう。

小烏神社周辺の古代の歴史
 …その昔、この一帯の地形が小烏の森と云われるほどの森林地帯であったという。推定四百年ほど昔に鍛冶職の人々によって創めて祀られた鞴の神様を地名に因んで小烏神社と呼びならされたものと思われる。
 鞆の旧記によると、南朝の後醍醐天皇の延元三年(一三三八)の八月十一日のこと。後世の史家が南北朝と名付けたほど、朝廷では二つに分かれて相克の戦乱を引きおこして居り、北朝側が次第に優勢となったとき、その軍の総指揮者は別章で記述した鞆で再挙の軍を起こした足利尊氏であったが、遂に北朝の光明天皇より征夷大将軍に任じられ京都の室町に足利幕府を創設した。
 このとき尊氏の弟の直義は、自分の勢力の外郭にしたい下心から、兄将軍に願出て当時の要職の一つである中国探題に、我が庶子である直冬を補す(役につける)ことを懇望したのであった。
 中国探題とは、中央政権の出先機関として、遠隔の地の政務をとり、訴訟ごとから内乱外寇を鎮定防禦する役目で中国地方に一つしかない重要な、いわば軍政の機関であった。その重職に任じられた足利直冬は京都より大阪に出て、それより海路をとり備後の鞆に到達すると早速大可島(今日の要害)に居城を構えた。
 直冬は政務をとるに当って信賞必罰を旨としたので、備後路一帯の将兵は悉く馳せ参じた。そこで海岸線一帯には旗差物(従者が持つ主人の旗じるし)が風になびき、肥馬は鞆の全域に満ち満ちた……と昔の史家は伝えている。
 一方この情報を諜者によって知った尊氏の執事(参謀)の高師直とその弟の師恭は、最近になって探題の父親、直義と不仲になっていたので、ソレッ!!とばかりに「直冬謀反の兆あり、備後でしきりに徴兵す」と尊氏にざん訴したのだからたまらない。「我が甥ながら不都合である!!打てッ」…と罪もない直冬に追悼の命が下された。

 このとき大可島の直冬も逸早く中央軍の行動を知り、家臣の河尻肥後守幸俊を主将に命じ、副将には磯部左近将監をつけ、八百の手兵で小烏の森に守備の陣を布かせた。だが薬師の峯より攻め下った中央軍千五百の軍勢には衆寡敵せず、わずか半日の戦闘で主将も副将も相次いで討死したので、大可島の直冬は今はこれまでと賊軍の汚名を着せられたまま、海路、九州肥後の国まで落ちのびて行った。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

戦場となった小烏の森

天目一箇神社

参拝を済ませて石畳の通りを西へ進む。私はこの近くで確認しておきたいことがあったのである。

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鞆鍛冶の氏神様・小烏神社(その2)

2011年12月19日 | 
鳥居を抜けると「天開神武樹元 地與人文増氣象」と書かれた立派な注連柱が現れる。これは地元の有力者・林半助氏(鞆軽便鉄道株式会社初代社長)が建てたものである。私は境内へ足を進めて神社の祭神に関する説明に目を通した。

鞆軽便鉄道の登場
 …鞆の旧家や資産家たちは、明治の初期から中期にかけて次々と没落するという悲運に見舞われた。そしてあれほど殷賑を極めた出船、入船はもう千石船の影もなく、小船がようやく出入する程度で、曽っての汐待ちの言葉も鞆女郎の廃れと共に消えていった。
 そのような日蔭の鞆を支えたものは、鞆鉄鋼と鞆漁業の台頭であった。言わば過去の鞆は商業中心の大商人に付随した従順な家僕であり、蔵人であり、仲仕であった。それが鉄鋼と言い漁業と言い、小資本のもとで働く一人一人は、自らを開拓するという気風が湧然と湧き上がった。…

 …鞆産業の振興を意図の下に立ち上がった鉄道敷設の発起人たちが、鉄道事業の免許を獲得したのは明治四十三年九月五日であった。山陽線が福山駅、尾道間を開通した日から数えて一八年と一〇ケ月を経過していたのである。そして林半助(二代目)を初代社長に仰いで鉄道事業は遂に発足した。大正二年十一月十七日のことである。全線一〇、七キロの鞆、野上間に軌条間隔は、二、六フィートと言った狭軌のものであったが、一日七往復の運転は沿線の人々に多大の恩恵を与え、永年沈滞していた鞆産業界に活気を与えた。
 それまで鞆町民は、福山城下町に出かけるには、三里の道を三時間がかりで歩いた。魚荷たちは車力によって荷台に魚を乗せて三里の道も遠しとせず、毎日車夫のように走りまくっていた。その路線に軽便鉄道が敷設されたのである。鞆、田尻、水呑、福山城下町の住民はどれほど利便を感じたことか?それは当時の人々でなければ味えぬ実感であろう。
 当初、鞆野上間の大人の片道運賃は二〇銭で、米一升が一七銭、一日の労働賃が平均一円程度の時代であるから労賃に比べると決して安い汽車賃ではなかった…

 鞆軽便鉄道株式会社が大正二年に設立の資本は二〇万円(今日で約六億円)であった。次いで大正一五年一二月には鞆鉄道株式会社と社名は変更された。創立以来三〇年を経過する頃には、軌条を走る一定路線より、縦横に走るバスが世人に利用されるようになり、約五年間に亘る赤字経営を断ち切るために鉄道事業は発展的に廃止されバス事業に切替えたのは、創立三代目に当る林公三郎社長の一大英断であった。昭和二十九年三月のことである。

祭神と鞴のいわれ
 小烏神社の祭神は天目一箇神あめのまひとつのかみと言われる。古代に鍛冶を司どった神と仰がれ、また別名で鞴ふいごの神様とも崇められた。…
 天目一箇神が、別名鞴の神と云われる所以は、一箇神が鉄を鍛える火床ほどに風をおくるために、長方形の箱を考案し、横下に穴を設け、箱の中に間仕切のような板を入れ、それに柄を取付けて箱の外に出し、その端に引手を付けて前後に押し引きして見たが思うほどの風が横穴に出て来ない。箱の周囲には空気が漏れぬよう土で目張りしても駄目であった。さまざま鞴の工夫にもて余していたところ、天より降るように飛びこんで来た一匹の狸が箱の中にスーと引き込まれるように姿を消してしまった。
 その出来ごとにハット気付いた一箇神は、そうだ間仕切の周囲を狸の毛皮で巻いて、箱内に入れる空気と、横下穴に押出す空気をよろしく調節すれば、火床に炭火をおこす風が送れる!!………そのように考えた一箇神は、天啓の狸の皮を求めて狩猟に出かけた。間もなくその毛皮をもって完全な鞴を考案された。鞴という字は革を備えると書く。それにつき、妙な話がある。それは、不思議にも、狸の毛皮以外の皮は鞴づくりには向かないことである。…

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

小烏神社の祭神等についての説明(神社境内)

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お目出度き人たちとの賢い付き合い方(笑)

2011年12月19日 | 日記
自分たちの主張に異を唱えるクレバーな人間を見るとすぐに嫌がらせをする集団がいる。鬱陶しいという点では夏にまとわりつく害虫に酷似しているが、こちらは年中発生するから性質が悪い。

お目出度き人たちへの対策はひたすらスルーするに限る。「自分は被害者だ」と威圧的に語る輩ほど実は加害者になっていることが多いし、一つも反省をしないのを私は県東部の某エリアで見てきた。そういう地区では(当尽虚臭による)偏向教育が特に盛んである(笑)

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殻つきカキ(岡山県浅口市寄島町産)

2011年12月19日 | 食材
福山市のスーパーには主に広島県産と岡山県産のカキが並んでいる。我が家は安くて品質の高い寄島(よりしま)産を好んで買い求める。100グラム当たり50円程度であれば誰でも欲しくなろう。

岡山県出身の料理人が「福山人は価格と味にシビアなんで寄島のカキを出しとるんじゃ。お客が喜んでくれりゃー、まーどこの産でもえーわ(笑)」と裏話を聞かせてくれたことをこの時期になると思い出す。長ったらしい能書きが大嫌いでコストパフォーマンスを要求する人が地元に多いのは事実だ(笑)

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鞆鍛冶の氏神様・小烏神社(その1)

2011年12月18日 | 
石井町の通りを北上し鍛冶町に入る。町名の通り南北朝・室町時代にはたくさんの鍛冶職人が暮らしていた。鞆町の鉄工の起源は奈良時代まで遡るという。

鞆鍛冶の信仰を集めた小烏神社(こがらすじんじゃ)へ私は立ち寄った。石造りの鳥居には「鍛冶町惣氏子中 享和元(辛酉)年九月吉日」の文字が刻まれている。扁額の銘は「小烏大明神」となっていた。鳥居は今から210年前に建てられたものである。

〔石井町〕
天正三年石井石見守信兄弟義昭將軍に扈従し來たり矯居せし跡なりと云ふ。

『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』

鞆の浦振興事業団が作成した地図より関町・石井町・鍛冶町付近を拡大

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