寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

「より」という合字 

2012年09月23日 | 日記
古文書をすらすらと流し読みできるようになるまでにはかなりの時間を要する。墨で文字を書くこともない今、合字や崩し字の知識は皆無に近いからだ。基本形をいくつかマスターすることで読解能力は徐々に向上する。

私が最初に覚えた合字は「より」であった。「境」の下の文字は、るに濁点を打ったような、あるいは数字の5を崩したかのような奇妙な記号に見えるが、前後の文章から判断すると「から」か「より」になる。ひらがな2文字で考えれば「より」が正解だ。

郷土史研究では文献を調べる上でまず旧字体や旧仮名遣いに慣れることが重要である。

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福山市霞町4丁目交差点角の追分道標(後編)

2012年09月22日 | 郷土史
霞町4丁目交差点から尾道往還を西へ進むと右手に鮮魚店・魚広がある。店の西側を流れるのが下井手川で短い橋が架かっている。

水野家時代福山城下明細地図(包み)

水野家時代福山城下明細地図(尾道往還を拡大)

水野家時代福山城下明細地図を参考にすると下井手川の堤寄りに番所(赤く塗りつぶされた長方形)があり、通行人を監視したことが分かる。芦田川の渡しを利用するためには番所でチェックを受けてから百姓家や田がある所を経て役人村(現在の言葉で置き換えれば西警察署となろう)へ入らなければならなかった。注目すべきは往還が竹薮などで仕切られていた(緑色の太線)ということである。

役人村は時に極悪人の仕置きも担当し城下の治安維持に貢献していた。私は磔場及び斬罪場跡地に程近いお堂に立ち寄り乃木将軍の肖像画を繁々と見つめ心の中で手を合わせた。広島市や岡山市には斬罪場の所在を示し刑死者を手厚く供養する地があるが、わが故郷には何故かほとんどない。

旧役人村に残るお堂

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コチの煮付け

2012年09月22日 | 家飯
夏場の造り(洗い)で好きな物を3つ挙げよ、と言われたら私は即座に順位をつけるだろう。

1位アコウ(=キジハタ)、2位コチの洗い、3位若鮎の背ごし。ねちっこさ皆無の白身はどれも日本酒によく合う。

コチ(鯒)は見てくれは悪いが、味は一級品である。コチの煮付けはまさに左党のためのアテ。火を入れると身はホクホクの食感に変わる。元がいいから濃い味をつける必要がない。品の有無で真価は決まる、魚も人間も(笑)

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福山市霞町4丁目交差点角の追分道標(中編)

2012年09月21日 | 郷土史
追分道標横に設置された説明板には「西国街道さいこくかいどう 霞町の道しるべ」という表題がついている。内容を以下に記す。

元和八年(一六二二年)、福山城が築城され城下町の形成が進むと共に、城下町から地方への道も整備された。この地は、福山から尾道への旧国道と、福山から鞆への県道の分岐点として「西霞町追分おいわけ」と呼ばれ、多くの人達で賑わい「往還おうかん」とも言われた。
この道しるべは明治三十三年(一九〇〇年)六月、発起人森本六右衛門氏が井上角五郎氏の協力を得て建立。昭和二十九年(一九五四年)の道路改修工事の為、この地より旧市役所に移されたが、その後中央公園に移設された。
平成二十二年(二〇一〇年)、霞本通道路美装化を期にこの安住の地に設置し当時を思い偲ぶものとする。
霞本通商店街 

霞町の道しるべの説明に添付された昭和12年の市街地図

説明の下に添付された昭和12年(1937)の市街地図(福山城博物館所蔵)は非常に重要である。追分道標の南西側に位置する逆U字型の川が旧芦田川の支流・鷹取川で、御丁寧に河原まで着色してある。水害対策事業として河川改修工事が行われて鷹取川は廃川となり、現在は住宅地に変わっている。鞆鉄道の路線を辿る上で旧芦田川の形状を知ることは基本中の基本だ。

昭和11年頃の市街地図で霞町の追分道標から古野上町辺りまでを拡大してみた。現在とは随分道が異なっているし、水路の一部は消えたことが分かる。

昭和11年頃の市街地図より霞町・古野上町辺りを拡大

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福山市霞町4丁目交差点角の追分道標(前編)

2012年09月20日 | 郷土史
昨日鞆鉄道・野上駅跡を紹介したが、少し寄り道することをお許し願いたい。備後国(の本流である福山)に近代的な鉄道が敷かれるまで住民はどんな道を通って城下を離れていたのだろうか。私と同じく素朴な疑問を抱いた人はかなりいるはずだ。

謎が解けるきっかけとなったのが平成22年(2010)年7月21日(水)の毎日新聞朝刊の記事である。高山梓氏が書いた全文と現在の霞町4丁目交差点から西を望む写真を掲載する。

霞町4丁目交差点から西方(尾道への旧道)を望む

尾道、鞆への「道しるべ」 福山・霞に〝里帰り〟

 福山市霞町の福山霞三丁目商店街に明治時代から第二次大戦後まで「道しるべ」として設置され、その後の土地区画整理事業で移転を余儀なくされた石柱がこのほど、里帰りした。
 石柱は1900(明治33)年、地元の衆議院議員が寄贈した。江戸時代から街道として多くの旅人らでにぎわった一帯で、石柱は西の尾道と南の鞆への分岐を示す存在だったという。戦時中の空襲で辺り一面は焼け野原になったが、石柱は無傷で残った。
 しかし、54年の土地区画整理事業に伴い撤去され、約500㍍離れた中央公園(同町)の敷地内に移された。
 4年前、移転の経緯を知った同商店街の吉山征一理事長(72)が「あるべき場所に道しるべを帰してあげたい」と考え、56年ぶりの里帰りが決まった。
 今月17日、商店街関係者や市立霞小の児童らが台車を使い石柱を運び、元の場所に設置した。高さ約1・8㍍、重さ約300㌔の御影石製の石柱には、「左トモツ道」「右ヲノミチ道」と当時から残る文字で方向が示されている。
 吉山理事長は「やっと戻ってくれたなあ、と感激。街の歴史の証人として、これからも大切にしたい。にぎわい復活につながってくれれば」と話した。

【高山梓】

霞町4丁目交差点角に建つ花のふじわら

花のふじわら(霞町4丁目4-1)寄りに再移築された追分道標は正しい方向を向いている。花屋の対面(旧道を挟んだ北側)が和洋菓子店の福備堂(同町4丁目3-5)である。

明治33年に建立された追分道標(霞町4丁目交差点角)

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秋から売れ始めるコンビニのおでん

2012年09月19日 | 日記
秋口からコンビニでおでんを買い求める客が増えるというのが最近の傾向である。気温が下がり始めた頃に温かいものが無性に食べたくなる気持ちは理解できる。短い秋に冬の定番であるおでんを一足早く楽しむのはある意味贅沢と言えよう。

コンビニのおでんは昔と比べると本当に美味しくなった。種は手頃な価格でしかも外れがない。そして酒のアテ兼ご飯のおかずになるのがよい。彼岸を過ぎたら私もおでんを仕込むつもりだ。

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福山市西桜町1丁目の高橋金物株式会社(鞆鉄道・野上駅跡)

2012年09月18日 | 郷土史
中華料理・天津(西桜町1丁目2-24)前を通過し南下。右手の民家の間に稲荷神社(同町1丁目3-2)があった。

西桜町1丁目の稲荷神社

神社の先はどん突きであるが、その角に高橋金物株式会社(同町1丁目2-16)が建っている。実はこの細長い建物が鞆鉄道野上駅跡となる。私は霞町4丁目在住の古老から跡地を示すプレートが金物屋の壁に取り付けられていることを聞き出していた。

どん突き角に位置する高橋金物㈱


古野上町福寿会老人クラブによる説明(他にも数箇所設置されている)は簡潔で分かり易い。初心者だけでなく郷土史研究家にとっても非常にありがたい内容だ。私は老人クラブが遺した説明によって長年の疑問をいくつも解消することができた。福山市発展の歴史を正しく伝えようとする年長者の存在を知り嬉しくなった。真の郷土愛とは本来このように暑苦しさを微塵も感じさせないものだと思う。

高橋金物㈱の壁に取り付けられたプレート「鞆鉄道野上駅跡」

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不快さを伴う初秋の風景

2012年09月18日 | 日記
動物園に入った時のような臭い。土手下の側道のほとりには多数の左お捻り。息を止めて東へ向かう。ふと用水路に目を向けると水面から5センチほど上がったところにびっしりと赤い卵が産みつけられているではないか。ジャンボタニシの卵だ。これほど気持ちの悪い初秋の風景は滅多に見られるものではない(苦笑)

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福山市西桜町1丁目の伊田ふとん店の前を走っていた鞆鉄道のラッキョウ列車

2012年09月17日 | 郷土史
国道2号線の西桜町1丁目(東)交差点から横断歩道を渡りイタリアレストラン「フラカッソ」前に到着。レストランから1つ西筋の通りに入る。私は伊田ふとん店(西桜町1丁目4‐3)の奥さんに鞆鉄道の路線について尋ねてみた。彼女は「うちの前を列車が走っていたとは聞いております」と言った。

西桜町1丁目の若月マンション・駐車場

ということは、ふとん店前の道の後ろ(東側)を列車が行き来していたのだろう。当時の痕跡は無いが、若月マンション(西桜町1丁目1‐4)の駐車場スペースを見て「ここだな」と確信した。読者の皆さんに納得してもらうために再び昭和40年の市街地図(西桜町1丁目)を掲載する。

昭和40年の市街地図より西桜町1丁目周辺を拡大

黒矢印が私の進路、肌色で塗り潰した場所が伊田ふとん店、若草色がマンションの更に南に位置する駐車場、である。47年前、フラカッソの位置には佐々木木材が、そしてマンションの位置には真宗大谷派・妙蓮寺(みょうれんじ)が建っている。妙蓮寺は墓地が手狭となって水呑町へ昭和40年代に移転したのであった。

妙蓮寺の西側の空き地(茶色の平行線の間)が鞆鉄の路線跡と考えられる。西桜町1丁目1‐11西隣の駐車場の写真から大体の幅がお分かりになるだろう。

西桜町1丁目1‐11の西隣の駐車場から北方を望む

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香ばしいみょうがと味噌の焼き物 

2012年09月17日 | 家飯
みょうが(茗荷)を使った酒のアテについて話をしよう。関東のそば屋で冷や酒を頼むとよく出てくる焼き味噌(そばの実入り)は実に美味いが、これにみょうがを組み合わせた料理である。

みょうがを縦半分に切り、合わせ味噌(信州味噌と西京味噌をブレンド)を塗る。そばの実の替わりに白ごまを振ってオーブンでトースターで軽く焦げ目がつくまで焼く。みょうがの辛みと味噌の控えめな甘みが交じり合い、舌をじんわりと刺激する。酒で舌を洗い、またみょうがをかじる。飽きのこない大人の味は意外に簡単に作れるものだ。

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魚のカマの部分

2012年09月16日 | 食材
胸鰭の後ろの部位をカマという。肉厚で旨味が強いため、料理屋でも一品料理として提供される。最も無難な食べ方は塩焼きであろう。他には蒸し物や煮付けがある。下処理で重要なのは鱗と血の塊を丁寧に取り除くこと(専用の鱗取りを使うと楽に作業できる)。舌に鱗がはり付いては料理が台無しになってしまうから。

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福山市西桜町1丁目のイタリアレストラン・フラカッソ

2012年09月15日 | 郷土史
国道2号線の西桜町1丁目(東)交差点で信号待ち。南に見えるのがイタリアレストラン「フラカッソ(西桜町1丁目1‐2)」である。思えば城下西外れの西桜町界隈までやって来ることなどはほとんどなかった。高校を出るまでは正月の草戸稲荷参拝で通過する程度だったと思う。

旧市街中心部で暮らす人間は自転車で行動できる範囲内を行き来するだけ(便利な街ゆえ)というのが実情ではないだろうか。誠に皮肉な話だが、私が西桜町周辺に関心を払うようになったのは、ホテルプリンスでの火災事故発生以降である。フラカッソ裏のマンションが建つまでには実はいろんな歴史があった。

フラカッソ桜町店奥の高いビルが若月マンション

追記(2014.2.2) 
フラカッソは平成25年(2013)9月末日で閉店し、11月7日からビッグボーイ福山店(ゼンショーグルーブ)として営業を再開している。※サンデーサンは平成19年(2007)3月26日にゼンショーグループ入りし平成25年8月1日にジョリーパスタに社名を変更した。

ビッグボーイ福山店

ビッグボーイ

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岡山県産イイダコの煮付け

2012年09月14日 | 家飯
内臓・目・くちばしを除去(目とくちばしに関しては調理バサミを使うと楽)したイイダコをボールに移してやさしく揉み込む。白い泡が灰色に変わってきたら(吸盤の中の汚れが落ちたことを確認して)水洗いする。

よく揉んでぬめりを取って洗った状態(タコはぐったりしている)

きれいになったタコはぐったりしたかのように見える。タコを沸騰水にくぐらせ臭みを取る。タコが小豆色に変わると独特の芳香が漂う。

さっと湯引いて臭みを取る

湯引いたタコを出汁・酒・砂糖を合わせた調味液で短時間炊いて薄口醤油で味を決める。タコが冷める間に味が浸透するのを計算に入れて塩分濃度はやや控えめに。適度な歯応えのイイダコ(煮しめた時のようなかたさではない)を目の前にすると酒が止まらなくなる。

イイダコの煮付け

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瀬戸内海で獲れるイイダコ

2012年09月14日 | 食材
小さなイイダコがスーパーにたくさん出回るようになった。6匹で250円程度である。岡山産ということだが、笠岡近辺で獲れたものだろう。安くて美味しいものはお隣から引いてくるのが福山という街だ。

秋のイイダコはまだほとんど子(米粒状の卵)が入っていないが、子無し状態の方が好きという人もかなりいる。酒のアテとしては塩ゆで、煮付けがポピュラーである。

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