寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山城の月見櫓から追手御門方面を望む 

2013年02月09日 | 郷土史
JR福山駅改札を抜け北口のタクシー乗り場へ向かう人々の視界に入るのが月見櫓である。本丸の東南隅に位置する櫓(再建)だが、予め届出をすれば市民が利用することもできる。

福山城の復元
 明治維新によって多くの建物が取り壊され、さらに昭和二十年(一九四五)の戦災で天守閣、御湯殿を焼失した福山城に対する愛惜の情は市民の間に深く、戦後間もなくの伏見櫓と筋鉄御門修理(昭和二十六年より二年4ケ月)のころから、天守閣、月見櫓の再建の声は市民の間から起こっていたが、一般市民の戦災住宅問題とからんで、実現するにいたらなかった。

 時あたかも市制五十周年を迎える昭和四十一年(一九六一)の記念事業として、市長の発意により「福山市の過去、現在、未来を結ぶ記念塔として、城郭の内部は市民生活に直結した近代的な利用を考え、博物館、美術館、または市民教養の場等文化の殿堂として、広く市民教育福祉の向上に資す。」との趣旨のもとに、天守閣・月見櫓・御湯殿の復元に着手した。
 復元に要する経費は、日本鋼管福山製鉄所や福山商工会議所などの経済界の主導のもと全額募金し、総額一億五四七一万円の予算のもとに着手した。天守閣は史跡地としての文化財保護委員会の必要な許可手続きもふみ、国庫の史跡保存工事の補助金を得て、昭和四十年(一九六五)十月十五日に起工式をあげ、月見櫓、御湯殿もそれぞれ昭和四十一年五月には起工式の運びとなった。

月見櫓の復元
 戦災で焼失した天守閣や御湯殿を復元すると同時に、城郭としての景観を整える意味で、明治初年にとりこわされていた本丸の東南隅の月見櫓を復元することとした。幸いに明治初年に撮影された写真や絵画が存在したので、これも外観復元を行った。二層の鉄筋コンクリート造りで、渡櫓の一部も設けて、その室内には茶室を造り、二階も畳敷きの和室として各種の会合に利用されている。

『新版福山城 / 福山市文化財協会(2006年)』

福山城の月見櫓

下の画像は月見櫓(2階)から南方のキャスパ(元イズミ)・アイネス(繊維ビル跡地)を撮影したものである。キャスパが追手御門(内堀と外堀に囲まれた三之丸南側に突き出た枡形)があった場所になる。

月見櫓から南方を望む

現在の本丸だけで城の規模をとらえると小さく感じてしまうが、古地図(江戸期)を見れば城下町の規模はかなり大きいのだ。近年では東誠山(強)さんの研究「姫路城下町との比較」が斬新で面白い。城下町を数値で捉える観点が今後は重要になると思う。先人が遺した歴史書をじっくり読み返すこと(特に治安維持に関して)が基本中の基本であることは言うまでもない。

月見櫓の説明

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月の福山城(戦前の絵葉書)

2013年02月09日 | 郷土史
廃藩置県の後(明治6年から中期までに)備後福山城では多くの櫓が取り壊されている。また山陽鉄道の福山駅建設などによっても城の遺構が失われることになった。福山空襲で櫓や門のほとんどが焼け落ちたと思っている人が極めて多いが実際は違う。月見櫓跡に葦陽館(絵葉書のほぼ中心に位置する建物)が完成したのは明治21年(1888)。その頃には天守閣以外で残っていた物は僅かだったのである。

戦前の絵葉書とほぼ同じアングルで撮影

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