(西鉄開業100周年記念号@西鉄小郡駅)
朝から暑い太宰府で子供たちの学業祈願を済ませた後は、改めて急行電車に乗って大牟田方面へ。ただし、そのまま真っ直ぐ大牟田方面に向かうことはせずに、西鉄小郡駅で下車してみました。福岡県小郡市の中心駅で、駅は2面4線の緩急接続タイプ。ここまでは天神からの区間列車があったりして、運転上の節目になる駅でもあります。駅から西に1kmと少しで佐賀県の鳥栖市。このあたり、並行して走るJR鹿児島本線は鳥栖付近でいっとき佐賀県をかすめ、長崎本線を分けて再度福岡県側に戻りますが、西鉄電車はここから先、味坂駅の南側で佐賀県まであと100mくらいの場所を走りつつ「意地でも佐賀県には入らんばい!」とでも言いたげな感じの絶妙なコース取りで南下して行きます。駅を出て行く天神行きの急行電車は3000形の5連。2024年は前身の九州鉄道から数えて西鉄開業100周年のメモリアルイヤー、記念ラッピングの「ガタンコ・ゴトンコ号」が発車して行きます。
西鉄小郡駅のすぐ北側、100mくらいの場所で、大分自動車道と単線非電化のレールが西鉄電車をオーバークロスしています。これが旧・国鉄甘木線を三セク転換した甘木鉄道。築堤の上に設けられた小郡駅。国鉄時代は「筑後小郡駅」という名前でもう少し離れた場所にあり、ちょっと乗り換え駅としては使い勝手がいいとは言えない関係にあったものを、三セク転換を機に現在の位置までずずーっと500m移転。お互いに歩いて5分程度の位置関係に整え直し、大きく利便性を改善したのでありました。そう言えば、西鉄大牟田線は鹿児島本線と2回、久大本線と1回、筑豊本線と1回、そしてこの甘木線と1回と5回の国鉄線との交差シーンがあるんですが、どこにも明確な「乗換駅」は作られてはいません。筑豊本線は「原田線」と呼ばれる閑散区間ですからまあ仕方がないにしても、鹿児島本線とは福岡市内の井尻~雑餉隈間(南福岡付近)や久留米市南部の聖マリア病院前~津福間で交差していて、ここに乗換駅でもあったら便利なのでは?というのは普通の感想なのだが・・・徒歩連絡でも有効な位置に駅を作らなかったのは、福岡都市圏の中で明確にお互いをライバル視しているのもあるのだろうし、そもそも昔から、「天神」に行く人は西鉄電車へ、「博多」へ行く人は国鉄へという住み分けがあって、利用する目的が違う路線なんだとも思います。
築堤の小郡駅に駆け上がって来る甘木鉄道のディーゼルカー。国鉄時代は1日僅か7往復の閑散ダイヤで、朝8時台の列車が出て行ったら次が夕方の16時台という結構とんでもないダイヤで走っていた。そんなに需要がなかったのか、それとも当時の国鉄らしいヤル気のなさなのか。三セク転換以降、新生・甘木鉄道は徹底的な地元密着と利便性の向上のため筑後小郡駅を移設し4駅を増設、交換駅を増やして車両を増備。その積極姿勢が奏功したのか沿線の学生や通勤客の利用が定着し、現在は40往復/日、朝7時台は15分ヘッドで走って来る優良三セクのひとつ。福岡周辺には、このように潜在需要がありながらテコ入れをされず、流れに任せて旧態依然としたままの路線がそこそこあって、この国鉄甘木線や初日に見て来た国鉄勝田線(吉塚~筑前勝田間)なんかがその好例。筑肥線の旧線(博多~姪浜間)なんかもそれに当たるでしょうか。筑肥線は福岡市営地下鉄との相互乗り入れ、甘木線は三セク化で事態の改善を図ることが出来ましたが、勝田線は早々に廃線となってしまったんですよね。
小郡からはしばらく、宝満川を渡るまでは大分自動車道と併走して小郡市内の高架線を走る甘木鉄道。このあたりも三セク転換以降の小郡市内の立体交差事業という感じがするが、途中に設けられた大板井駅は大分自動車道の「高速小郡大板井バス停」に隣接していて、公式でも高速バスへの連絡が推奨されている。ダイヤを見ると、西鉄バス・日田バスの共同運行便である「福岡~日田線」の高速バスが30分に1本の間隔で発車していて、天神・博多方面へ40分で結んでいる。料金は1,040円と甘鉄・西鉄経由の650円と比べると若干割高感はありますが、時間帯によってはバスの方が早い場合もあったりするようで、着席して乗り換えなしで天神・博多まで直行はシチュエーションによってはアリなのでは。
甘木鉄道のNDCは、田園の中に工場地帯が混じり込むような半農半工業の風景の中、晴れたり曇ったりの筑後平野を東へ進んで行く。小郡の駅から乗車して約15分、大刀洗の駅で青い色のキハを降りる。平日の午前中、どのくらいの人が降りるのかなと思ったら、案外と車内の半分くらいの人が甘木まで行かずにここ大刀洗で降りて行く。彼らに続いて構内踏切を渡り駅前広場に出ると、かつての駅舎だったと思しき木造の建物の上には何故だか飛行機が乗っかっててびっくり。これは旧駅を活用した「大刀洗レトロカフェ」という施設らしいのだが、上に乗っている航空機は、ここがかつて「東洋一の飛行場」と呼ばれ、九州・沖縄や大陸方面の防空と本土防衛の最前線基地としてだけでなく、航空隊の訓練施設や、航空機の生産を通じて日本の航空技術の発展に多くの足跡を残した大刀洗飛行場があったことによります。
今年で戦後79年目。油照りの夏、この大刀洗の街に、記憶の糸を辿りにやって来ました。