tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

グルメブームの変遷をたどる/奈良新聞「明風清音」(106)

2024年07月26日 | 明風清音(奈良新聞)
奈良新聞「明風清音」欄に月1~2回、寄稿している。先週(2024.7.18)掲載されたのは〈レストランガイド今昔〉、昨今のグルメブームを、『東京いい店はやる店』(新潮新書)を読み解きながら、振り返った。では、以下に全文を紹介する。

レストランガイド今昔
ミシュランガイドを筆頭に、私はよくレストランガイドのお世話になる。フードコラムニストの門上武司さんによると、「洋服は試着できるが、レストランの食事は試食できないからね」。確かに、初めてのお店に行くときは、「失敗しないかな」と心配する。そのリスクを低くしてくれるのが、レストランガイドというわけだ。

柏原光大郎著『東京いい店はやる店』(以下『はやる店』、新潮新書)を読んだ。〈現代日本の外食グルメの歴史を自身の体験と共に記す。70年代から始まるフランス料理の隆盛、バブルと共にやってきた「イタ飯」ブーム、内装とサービスにこだわったエンタメレストラン、グルメメディア事情、フーディーの登場、東京再開発によって活況を呈するイノベーティブレストランまで、「グルメの現代史」を総ざらい!〉(版元の紹介文)。

本書の記述は多岐にわたるが、ここではレストランガイドを手掛かりに、現代日本のグルメ事情を紹介したい。何しろ著者の柏原さんは、『東京いい店うまい店』(以下『うまい店』、文藝春秋社)の元編集者なのだ。

▼『東京いい店うまい店』発刊
レストランガイドの先駆け『東京いい店うまい店』は、1967(昭和42)年から刊行が始まった(2016年まで)。私は1977年に出た改訂新版を持っている。この頃2年間ほど、東京に住んでいたのである。

フレンチレストランなど高級店を中心に約500軒のリストのうち、私が訪ねたのは焼鳥屋など10軒程度だが、今でも記憶に鮮明に残っていて、上京のおりにふらりと訪ねる店もある。

『うまい店』の創刊後には、「すかいらーく」(1970年)、「サイゼリヤ」(73年)が1号店を出店、以後、ファミリーレストランのブームが起こる。

▼料理評論家の登場
落語評論家を自称していた山本益博氏は、1982(昭和57)年『東京味のグランプリ200』(講談社)を刊行する。〈山本さんはこの本で、店の選定基準と味の批評基準を明らかにして200店を選び、独自に格付けするという、当時はまだ誰もやったことがないことを行った〉(『はやる店』)。

山本さんは本書により、「料理評論」という分野の先駆者となった。〈彼の登場で「グルメ業界」の考え方は一気に変ったと言っていいでしょう。いまでも食メディア業界では「益博以前、益博以後」と言われるほどです〉(同書)。

▼「料理の鉄人」放送開始
1983年には漫画「美味しんぼ」が連載開始、88年には雑誌『Hanako』(マガジンハウス)が創刊され、ティラミスやナタデココがブームになる。90年には『dancyu』(プレジデント社)が創刊され、93年からは「料理の鉄人」(フジテレビ系)の放送が始まる(99年まで)。

▼ネットメディアの登場
画期的だったのが、ネットメデイアの登場だ。1996(平成8)年からは「ぐるなび」、2005年からは「食べログ」がスタートする。〈初期のぐるなびは、飲食店に対してネット時代の利便性を説く商売を始めました。簡単に言えば、飲食店向けのホームページ立ち上げサービスです〉(同書)。

その後食べログが登場。〈レビュアーの確保が重要だと考え、当時のインフルエンサーにレビュー投稿を頼みました。(中略)飲食店側に寄り添ったぐるなびと、ユーザー側に立った食べログの争いは、PV数において圧倒的に食べログが勝利し、ぐるなびは楽天グループ株式会社と2018年7月に資本業務提携契約を締結、2023年10月から「楽天ぐるなび」になりました〉。

2007(平成19)年には『ミシュランガイド東京』が刊行、12年にはテレビで「孤独のグルメ」がスタートし、今日のグルメブームを下支えする。食べログ登場から20年足らずでこのグルメブームとは、すごいなあ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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ルーツは饅頭の神さま林浄因!南都林家のファミリーヒストリー/奈良新聞「明風清音」第105回

2024年06月30日 | 明風清音(奈良新聞)
毎月1~2回、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿している。先週(2024.6.20)掲載されたのは〈饅頭の神さま 林浄因命(りんじょういんのみこと)〉だった。
※トップ写真は、饅頭祭り(2024.4.19)で全国の和菓子屋さんから林神社にお供えされた饅頭

ご子孫の藤林文和さんが自費出版された『まんじゅう忘れた太左衛門 南都林家の六百八十年』(JITSUGYO刊)に基づき、浄因以降約680年のファミリーヒストリーを紹介させていただいた。なお藤林さんの娘さんは、スムージーの専門店「DRINKDRANK」を営んでおられ、私も以前、当ブログで紹介した。では以下に、全文を紹介する。

饅頭の神さま林浄因命
今年4月、奈良市橋本町の藤林文和さんが、『まんじゅう忘れた太左衛門 南都林家の六百八十年』(A5判136㌻)を自費出版された。近鉄奈良駅の西、高天町交差点から南に少し下ったところに漢國(かんごう)神社がある。この境内に、日本の饅頭(まんじゅう)の祖神として林浄因命(りんじょういんのみこと)をまつる林(りん)神社がある。

文和さんは浄因の三十一代目のご子孫である。本書は古文書などに基づき、浄因に始まる南都林家のファミリーヒストリーを明らかにした労作である。



▼浄因の来日と突然の帰国
中国に渡り仏教を学んでいた龍山徳見禅師は、帰朝するにあたり、浄因ら中国人を連れてきた(1349年)。浄因は中国浙江省杭州の出身だ。著名な北宋の詩人・林和靖(りんなせい)の子孫だったと伝わる。

浄因は現在の奈良市林小路町のあたりに住み、そこで小麦粉で作った皮に小豆餡(あん)を包んだ饅頭を日本で初めて考案した。餡には、甘葛煎(あまずらせん)という甘味料に塩味を加えていたようだ。それまでにも、日本には中国から饅頭が伝わっていたが、それは蒸しパン状のもので、餡は入っていなかったという。

浄因は饅頭を天皇(おそらく北朝の光明天皇または後光厳天皇)に献上し、お褒めいただき、官女を妻に賜る。二男二女に恵まれるが、1358年に龍山禅師が亡くなると、その翌年の4月19日に突然、中国に帰ってしまう。浄因の男子一人は饅頭屋に、もう一人は龍山禅師の跡を継いで僧侶となった。

1460年代、林家は南都林家と京都林家に分かれるが、ともに饅頭を商って繁盛した。京都林家はのちに塩瀬を名乗り、徳川家康の江戸開府に合わせて江戸へ進出、これが現在の「塩瀬総本家」につながる。



饅頭祭りの当日には、県内4軒の和菓子屋さんが、いにしえの「奈良饅頭」を復刻された

▼天才・饅頭屋宗二の登場
南都林家の七代目が「饅頭屋宗二」と呼ばれた林宗二である。家業のかたわら連歌、和歌、漢学をよくし、『源氏物語林逸抄五十四巻』(源氏物語の注釈書)、『饅頭屋本節用集』(実用的な国語辞典)などの著書がある。

今も漢國神社では、宗二の業績を称え、毎年9月15日に「節用集まつり」が営まれている。宗二は現存最古の茶会記『松屋会記』にも登場する文化人で、奈良を治めた松永久秀から、奈良での饅頭の販売権を一手に与えられていたという。



五條市「菓匠居 千珠庵きく川」(文久年間創業)の奈良饅頭。しっとりおいしい薯蕷饅頭だ

▼饅頭屋から具足師へ
十代目孫四郎は、饅頭屋から、具足師に転身する。その理由について本書は、松永久秀の死とそれによる饅頭販売の独占権の消滅、その4年後の宗二と翌年の宗社(宗二の子)の死による宗博(宗二の孫)の苦境などを挙げ、林家を存続させるための手段として転職を図ったのではないかと推測している。

林小路には、当時著名な具足師だった岩井与左衛門がいた。与左衛門の親族で職人として活躍していた一人を宗博が養子に迎え(十代目孫四郎)、宗博または孫四郎の子を弟子として具足師に育て上げたのではないだろうか(十一代目久兵衛)。


▼具足師から質札屋へ
具足師は1669(元禄12)年まで約100年間続いたが、平和な時代となり、具足の需要が減少。しかも商品経済の発達で、貨幣取引が活発になる。そこで十四代具足師林久兵衛は、奉行所に「質札証紙の販売」を願い出る。質屋に質札という証紙を売ることで、質屋の元締めのような権利を得ることができる(質屋は質札屋から証紙百枚を銀三分で購入する)。

この十四代目がのちの質札屋太左衛門である。本書のタイトル『まんじゅう忘れた太左衛門』は、これに由来する。その後、南都林家は「林」から「藤林」への改姓、筆軸屋の開業と廃業、小鳥店の開業と廃業、飲食店(DRINKDANK)とペットショップ(ぽちたま雑貨店)の開業など、興味深いエピソードが続くが、紙数が尽きた。浄因由来のパイオニア精神は、まだまだ健在だ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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観光ガイド(企画ガイド)のノウハウがぎっしり!『観光ガイド論』/奈良新聞「明風清音」第104回

2024年06月01日 | 明風清音(奈良新聞)
奈良新聞「明風清音」欄に、月1~2回、寄稿している(第3木曜日と、木曜日が5日ある月は最終の木曜日も)。今週(2024.5.30)掲載されたのは、〈観光ガイドの心得と技〉、来村多加史(きたむら・たかし)著『観光ガイド論』(晃洋書房刊)の紹介である。

観光ガイドのあり方について、解説した書籍はごく少ない。この本は、その貴重な1冊である。さりげなく書かれた表現の裏に、30年間の経験に裏打ちされたノウハウがぎっしりと詰まっている。観光ガイドをされる方には、必読書である。では、全文を紹介する。

観光ガイドの心得と技
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、社会貢献団体として「アウトプット」活動を重視している。その三本柱は、「観光ガイド」「講演・講座」「文化財の調査」である。中でもお客さまから最も人気を集めるのが「観光ガイド」で、あらかじめ実施日とコースを決めて募集する「参加者募集型ツアー」は、募集開始から数日以内に定員に達することが多い。

ガイドの養成方法は基本的にO.J.T.(現場訓練)で、新人は最初の1年間は先輩のツアーに同行して、やり方を学ぶ。しかしこの方法だと、先輩の技能や指導力により、バラツキが生じる。「スキルが標準化・言語化されていない」からだ。

そんな悩みを抱えていたところ、良い本を見つけた。来村多加史著『観光ガイド論』(晃洋書房刊 税別2800円)である。著者は阪南大学国際学部教授で長年、奈良まほろばソムリエ検定の「体験学習プログラム」(現地探訪)のガイドや、「認定支援セミナー」(受験対策講座)の講師をお務めになった方で、私もご指導いただいた。また明日香村では、「プロガイド養成研修」の講師もされている。

版元の紹介文には、「30年の経験から引き出された観光ガイドのノウハウと観光学の展望」とあり、まさにプロガイドをめざす人々への指南書である。

本書は「第Ⅰ部 ガイドの心得と技」「第Ⅱ部 旅を企画するガイド」の2部構成だが、ここでは第Ⅰ部から主な内容を紹介する。なお本書でいうガイドは高度な「企画ガイド」であり、「反復ガイド」(一定の場所、一定の地域に待機し、訪れた観光客を案内する)ではない。

▼ベースは安全、安心、快適
お客さまを楽しませる基盤の一番目は「安全」、参加者の安全確保が、何より大切だ。特に歴史ツアーは高齢者の参加が多いので細心の注意を要する。そのためにも綿密な下見が必要だ。

二番目は「安心」。参加者は取り残される不安、体調を崩す不安、他人に迷惑をかける不安、時間を失う(解散時間が遅れる)不安にさらされている。添乗員や乗務員と連携し、これらの不安の解消に努めるべきである。

三番目は「快適」。景色を楽しんでもらうことなどで、快適な時間を作り出す工夫が必要。

▼共感、納得、発展で満足を
参加者が自ずとガイドに「共感」してくれるような案内を心がける。下見で自分が感動したところを見てもらうなど。
「納得」とは、腑(ふ)に落ちる、ということ。少し言葉を足して説明することで、「ああ、そういうことだったのか」と心底から納得してもらう。

「発展」は、また次も来たい、行きたいと思ってもらえるような余韻を残すこと。「今日のツアーで出会った〇〇は、別の△△にもありますよ」と補足する。

▼発見、体験、臨場、愉快
コース設計を工夫して、「発見」の感動を与える。史跡などの見方(アングル)を変えることで、忘れられない「体験」をしてもらう。五感で「臨場感」を味わってもらう。自然なユーモアで「愉快」感を演出する。

▼観光ガイドは「客商売」
ガイドは、集合時間の1時間前には着いておく。普段から大きな声が出せるよう、練習しておく。車通りの少ない道を選ぶ。斜め横断をさせない。

社寺では、それとなく参拝を促す。境内では大声を出せないので、鳥居や山門の外で説明する。景色の良いところでは「撮影タイム」を設けて、交代で撮ってもらう。ガイドの仕事は、知識を伝授するのではなく「知識を伝えて感動してもらう」こと。説明は短く「起→結」で。「時間配分」に気を配る。地域の「特産品」「お土産物」をさりげなく紹介する。

総じて、ガイドは客商売である。〈人を導く教育者ではなく、人を楽しませる芸人たらんことを、ガイドはめざすべきである〉。第Ⅱ部では豊富な旅の「企画事例」が挙げられている。高度なガイドをめざす人は、必読だ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
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売れてます!『奈良にうまいものあり!』/奈良新聞「明風清音」第103回

2024年05月22日 | 明風清音(奈良新聞)
毎月1~2回、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿している。先週(2024.5.16)掲載されたのは〈奈良の「食」を一冊に〉、『奈良にうまいものあり!――伝えたい郷土の味100話――』(なららbooks)の紹介である。

おかげさまでこの本は、よく売れているそうで、協力した私としても、とてもうれしく思っている。これまで、こんなにまとまって「奈良の食」を紹介した本はなかったので、そこが歓迎されたのだろう。では、全文を紹介する。



奈良の「食」を一冊に
今年4月、NPO法人「奈良の食文化研究会」は、『奈良にうまいものあり!――伝えたい郷土の味100話――』(なら文化交流機構刊 本体1,500円)を出版した。

同会は1999(平成11)年6月から会員が交代で月1回、本紙に「出会い大和の味」を連載し、はや四半世紀が過ぎた(現在の連載タイトルは「新 大和の食模様」)。



これら過去の連載記事を取捨選択して大きく手を入れ、また新たな書き下ろしを加え、「奈良のうまいもの」の全貌を紹介しているのが本書だ。私も少しお手伝いさせていただいた。以下、内容をかいつまんで紹介する。

▼奈良の食文化研究会とは
本書の帯には〈もう「奈良にうまいものなし」とは言わせない! 奈良の食文化の魅力をたっぷりと紹介〉とあり、並々ならぬ意気込みが感じられる。



同会は1996(平成8)年5月、伝統的な郷土料理などを発掘して、「奈良にうまいものなし」という誤解を払拭することを目的として設立された。

「食」に興味のある人、こだわりのある人、奈良を愛する人が結集。2019(平成31)年2月には、本紙など全国の地方紙と共同通信が主催する「第9回地域再生大賞」で優秀賞を受賞した。



▼奈良の「食情報」を網羅
本書は郷土料理、菓子、食材、加工品、飲料、社寺の食事の6章から成る。文章は簡潔平明で、写真も多く掲載されている。

巻頭グラビアでは、主要な「奈良のうまいもの」がカラー写真で紹介され、巻末には「食のお役立ち情報」として、道の駅や奈良の食を扱うアンテナショップなどが掲載されている。奈良の食情報が網羅された一冊だ。



▼悠久の歴史の中に息づく
奈良は「日本の食文化発祥の地」と言われる。飛鳥・奈良時代に大陸から伝わった食文化に加え、平安遷都後は、主に社寺がその文化を継承・発展させてきた。

渡来した小麦粉製品である索餅(さくべい=麦縄)は、わが国初の粉もんとして、奈良県産手延べそうめんに受け継がれている。県特産の吉野本葛は、今も和菓子や日本料理に欠かせない食材であると同時に、葛根は薬にもなる。



▼はじまりはいつも奈良
本書には奈良県が発祥地とされる食べ物がたくさん紹介されている。牛乳・乳製品、醤(ひしお=しょうゆのルーツ)、豆腐、茶粥・茶飯、柿の葉すし、奈良漬、うどん、清酒、まんじゅうなど数多く、まさに「はじまりはいつも奈良」だ。

また、奈良の地名を冠した食べ物も、たくさん登場する。大和橘(たちばな)、御所柿(ごしょがき)、大和スイカ、大和茶、三輪そうめん、飛鳥鍋、三笠(=まんじゅう)など。



▼コラム6本を書き下ろし
各章に付されたコラムも、充実している。〈谷崎潤一郎の「吉野愛」〉(第1章)では、短編小説『吉野葛』のずくし(熟柿)や、随筆『陰翳(いんえい)礼賛』のサケの柿の葉すしが紹介されている。

〈鮭の脂と塩気とがいい塩梅に飯に滲(し)み込んで、鮭は却(かえ)って生身のように柔らかくなっている具合が何とも云(い)えない〉。

〈かしわのすき焼き〉(第3章)では、牛肉のすき焼き、豚肉のすき焼きに対し、奈良県下では昔から、かしわ(鶏肉)のすき焼きが食べられてきたことを紹介している。

〈精進料理から生まれた「おかず」〉(第6章)では、日常的に食べられているおかず(お惣菜)は、中世に中国から伝わった精進料理(宋の僧院風料理)にそのルーツがあるとする。「味のついただしで煮込む」という画期的な調理技術は、精進料理によって日本にもたらされ、定着したのだそうだ。

「奈良の食」の魅力を凝縮したこの一冊、ぜひお買い求めください。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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箸墓は卑弥呼の墓、邪馬台は「ヤマト」と読む/奈良新聞「明風清音」第102回

2024年05月03日 | 明風清音(奈良新聞)
毎月1~2回、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿している。先月(2024.4.18)掲載されたのは、「箸墓は卑弥呼の墓か」。世間ではますます「邪馬台国=纒向説」に支持が集まっているので、気持ちとしては「箸墓は、やはり卑弥呼の墓だった」である。

考古学の重鎮が支持してくれているし、全く別の観点から「邪馬台はヤマトと発音する」という研究者も出て来ている。これは誠に愉快な展開である。では、以下に全文を紹介する。

箸墓は卑弥呼の墓か
最近になって、邪馬台国に関するいろんな論考を目にする。一つは春成秀爾氏の「箸墓古墳築造の意義」(雄山閣刊『何が歴史を動かしたのか 第3巻古墳・モニュメントと歴史考古学』所収)、もう一つは桃崎有一郎氏の「画期的新説 邪馬台はヤマトである」(『月刊文藝春秋』2024年3月号所収)である。いずれも邪馬台国纒向(まきむく)説(畿内説)に立つ。以下、これらの論点を紹介する。

▼箸墓は卑弥呼生前から築造
春成秀爾氏は国立歴史民俗博物館名誉教授で、考古学の重鎮だ。「真の考古学は実証の上に立つ推理の学であるべき」と主張する。
炭素14年代の測定結果によると、箸墓古墳の築造開始は226~250年にさかのぼる可能性がある。氏は箸墓は寿墓(寿陵)で、卑弥呼の生前から約10年かけて4段目までが築造され、247年の卑弥呼の没後、後円部の5段目が築かれ、そこに卑弥呼が埋葬されたと推理する。
 
5段目からは吉備(岡山)由来の宮山系特殊器台や都月系円筒埴輪(はにわ)が出土しており、被葬者の卑弥呼は、吉備につながる人物ではないかと推測。吉備から〈「倭国乱」後に大和に来た推定10歳前後の幼い姉弟が国を治めることはできない。おそらく彼らの父も同行して後見役を務め、その父が亡くなった後、男弟が卑弥呼を補佐することになったのであろう〉。

▼「鬼道」は龍女の祖先祭祀
吉備では人頭龍身文様のある土器が出土するし、女性の顔の表現をもつ弧帯石も出る。〈弧帯石は、備中の先祖が龍と女が交わって生まれた龍女であることを象徴的に表現した「神体」であって(中略)龍女の系譜は卑弥呼に引き継がれた〉。

『魏志』倭人伝には、卑弥呼は鬼道を用いて人々を治めたとある。〈「鬼道」の内容は龍女の祖先祭祀であって、祭祀において龍女を演じることによって自らが王であることの正当性を証明しつづけ王権の安定を図っていた、と私は推定する〉。〈箸墓古墳の形態は、吉備の龍のイメージを高度に抽象化して立体化したもので、その起源は円筒埴輪と同様に吉備に求められるのではないだろうか〉。

▼邪馬台は「ヤマト」と読む
次に、歴史学者・桃崎有一郎氏の説を紹介する。『魏志』倭人伝が書かれた3世紀、中国では「邪馬台(臺)」は「ヤマドゥ(ヤマダ)」のように発音されていたという、つまり「ヤマト」である。〈後代の地名で「邪馬台」と完全に発音が一致するのは、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」しかない。ならば、「邪馬台」という地名の場所は、その「ヤマト」との関係から探る以外にない〉。

古代中国には、〈統一王朝を樹立する直前に領していた諸侯国の国名を、統一王朝の国号にする〉という国号ルールがあった。諸侯国の「秦国」が中国を統一すると、統一王朝の国号は「秦」となり、諸侯国の「漢国」が統一すると国号は「漢」となる。

卑弥呼の時代には、中国の諸侯国のように、邪馬台(ヤマト)国、奴(な)国、伊都国など数十の国があった。統一王朝ができると、国号が卑弥呼の出身国「邪馬台(ヤマト)」となり、それが「倭(ヤマト)」と表記されるようになった。つまり中国式の「諸侯国から統一王朝へ」というルールにあてはめられたのである。

▼邪馬台=倭=纒向地域
 しかも狭義の「ヤマト」(大和郷)は、三輪山の北東の巻向(まきむく)山やその山麓の旧纒向村(桜井市北部)である。 〈すると、最近の考古学が、その纒向地域にある纒向遺跡とその付近の箸墓古墳を、それぞれ邪馬台国の故地と卑弥呼の墓の最も有望な故地だろうと推測していることは、改めて重大な意味を持つことになる〉。

うーむ、これは奈良県民には愉快な展開になってきたぞ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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