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全長200mの前方後円墳「佐紀池ノ尻古墳」(仮称)を確認!(2025 Topic)

2025年03月03日 | お知らせ
またまた新たな古墳が見つかった。コナベ古墳の南側、法華寺・海龍王寺の北側の「佐紀池ノ尻古墳」(仮称)である。全長約200mの前方後円墳というから、よほどの権力者の墓のようだ。

毎日新聞奈良版(2025.3.2付)には〈平城京跡 新たな古墳か 市教委発表 4世紀末の埴輪出土で発見 全長200㍍ 前方後円墳〉という記事が出ていた。

県内では「割塚古墳」(大和郡山市千日町)の石室や石棺の構造が明らかになり、3/2(日)に現地説明会が開かれたばかりなので、考古学ファンは大忙しだ。では、毎日新聞の記事全文を以下に紹介する。

奈良市教育委員会は1日、4~5世紀の大型前方後円墳などが集まる同市北部の佐紀古墳群で、平城京の造営に伴い埋められたとみられる4世紀末ごろの大型前方後円墳「(仮称)佐紀池ノ尻(いけのじり)古墳」(同市法華寺町)を新たに確認したと発表した。

全長約200メートルと同古墳群でも有数の大きさで、ヤマト王権の中枢にいた権力者の墳墓とみられる。発掘成果は3日から同市大安寺西2の埋蔵文化財調査センターで始まる速報展で展示される。


発見のきっかけとなった「鰭付盾形埴輪(ひれつきたてがたはにわ)」の破片。
同様の埴輪は巨大蛇行剣などが見つかった富雄丸山古墳などでも出土している
=奈良市の埋蔵文化財調査センターで2025年2月27日午後2時39分、稲生陽撮影


2023年8月に実施した宅地造成に伴う発掘調査で、奈良時代の地層の下から、古墳時代前期の4世紀後半~末ごろにしか作られていなかった「鰭付盾形埴輪(ひれつきたてがたはにわ)」が出土。土には古墳の周りの堀に特有の腐植土が含まれ、古墳の葺石とみられる石も見つかった。



現場周辺は現在は住宅密集地となっているが、周囲では過去の発掘で堀の南北端とみられる遺構なども見つかっている。さらに上空からのレーザー測量で全体の形や円丘部分の膨らみも確認できたことから、同センターは幅約30メートル、深さ2メートル以上の堀に囲まれた墳丘長約200メートルの前方後円墳と結論づけた。平城京造営により破壊された古墳は約30基が知られており、その中でも過去最大という。

約70基からなる同古墳群は4世紀後半の佐紀陵山(みささぎやま)古墳(同市山陵町)を振り出しに、主要道の変遷などに伴って、市北西部の西群から平城宮近くの東群に築造場所が移ってきたと考えられてきた。

しかし、東群に属する今回の佐紀池ノ尻古墳の築造時期はこれまで東群で最古だったコナベ古墳(同市法華寺町)より数十年古いとみられ、東西で同時期に古墳を作っていた時期があったことが明らかになった。同センターの村瀬陸学芸員は「古墳群はいずれも南北方向の向きが同じ。(朝鮮半島のある)北方を意識し、主要道の東西に作ったのでは」と話す。


上空西側から見た(仮称)佐紀池ノ尻古墳周辺=村瀬陸学芸員提供

速報展ではこのほか、平城京の官営市場「東市」の推定地(同市杏町)や当時の食生活が推定できるトイレ関連遺構などの発掘成果が展示される。31日まで(土曜休館)。午前9時~午後5時。無料。【稲生陽】

岸本直文・大阪公立大教授(考古学)の話 先行した西群と同時期に、距離の離れた東側にもほぼ同じ規模の前方後円墳を築造できる有力者が王権内にいたということ。今回の古墳のすぐ北側にコナベ古墳が造られたことを考えると、その後東群を築造していった勢力の出発点になる人物かもしれない。
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