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新直木賞作家・澤田瞳子氏の小説『火定』を読む/奈良新聞「明風清音」第65回

2021年10月24日 | 明風清音(奈良新聞)
毎月木曜日の1~2回、奈良新聞「明風清音」に寄稿している。先週(2021.10.21)掲載されたのは「天平のパンデミック」。澤田瞳子(とうこ)氏の小説『火定(かじょう)』を紹介した。

天平9年(737年)に大流行した天然痘では、奈良の都の人口8万人のうち約3割が亡くなった。藤原四兄弟(藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が亡くなったのもこの年で、長屋王の変(藤原氏による長屋王排斥事件)による「祟(たた)り」のせいだと噂された。

その惨状を描いたのが、この小説である。鳥肌が立つようなおぞましい光景が続々と展開するが、ご一読をお薦めしたい。では、全文を紹介する。

おどろおどろしい小説を読んだ。第165回直木賞を受賞した澤田瞳子(とうこ)氏の著作『火定(かじょう)』PHP文芸文庫(税込み968円)だ。

本書カバーには〈藤原氏が設立した施薬院の仕事に、嫌気が差していた若き官人・蜂田名代(はちだのなしろ)だったが、高熱が続いた後、突如熱が下がる不思議な病が次々と発生。それこそが、都を阿鼻叫喚(あびきょうかん)の事態へと陥らせる“疫神(天然痘)”の前兆であった。我が身を顧みず、治療に当たる医師たち。しかし混乱に乗じて、お札を民に売りつける者も現われて……〉。

時代は天平9年(737)、舞台は奈良の都だ。この年、都の人口8万人のうち約3割が天然痘で亡くなったという。当時と新型コロナの今を比較すると、共通点が多い。

一つは、疫病の発生源が外国だったこと。当時は遣新羅使(けんしらぎし)が天然痘を持ち帰った。これにより外国人差別や排斥・糾弾(きゅうだん)が相次いだ。二つめは、医療崩壊が起きたこと。皇族や上級貴族たちが都から逃げ出し、医師たちもそれを追うように姿を消し、庶民の頼みの綱は施薬院だけとなった。

本書をコロナの渦中で読むとリアルすぎて、何度も鳥肌が立った。なお「火定」とは「仏道修行者が、火中に身を投じて死ぬこと」(デジタル大辞泉)。天然痘と戦う施薬院の医師たちは、身命を賭して患者の治療に当たったのである。ネタバレしない範囲内で中身を紹介する。

ある日、都の施薬院に、一人の病人が戸板に乗せられて運ばれてきた。〈堅く目を閉ざしたまま、ぴくりとも動かぬ病人の顔は、一面、豆ほどの大きさの疱疹(ほうしん)に覆われ、元の容貌はおろか、年齢も性別すらも分からない。かろうじて微(かす)かに上下する胸が、そこに横たわるのが生きた人間であると告げていた。皮疹(ひしん)は灰色の瞼(まぶた)や唇、更には喉から肩先にまで散り、いずれも膿(うみ)を含んで腫(は)れ上がっている。その様はまるで、腐肉(ふにく)にびっしりとたかった蛆虫(うじむし)そっくりだ〉。

〈四方を山に囲まれた寧楽(なら)の夏は風が乏しく、蒸し暑い。それだけに(施薬院の)長室内には始終、むせ返るような悪臭と熱気が淀み、追っても追っても寄りつく蠅が、患者の頭上を我が物顔で飛び交っていた〉。

つらい施薬院の仕事から逃れようとする名代に、医師綱手(つなで)は言う。〈「わが身のためだけに用いれば、人の命ほど儚(はかな)く、むなしいものはない。されどそれを他人のために用いれば、己の生に万金(ばんきん)にも値する意味が生じよう。さすればわしが命を終えたとて、誰かがわしの生きた意味を継いでくれると言えるではないか」立ちすくんだままの名代の膝が、微かに震えた〉。

天然痘の流行を利用して、インチキなお札を売りつけ、ひともうけしようとたくらむ輩も出てくる。〈人並みの思慮を有していれば、これまで聞いたこともない神のお札と施薬院、どちらに信が置けるかすぐに判ぜられように。まるで寧楽じゅうの人々が、激しい熱に浮かされ、狂奔(きょうほん)のただなかでもがいているようだ。こんな日々が続けば、寧楽は――この国はどうなってしまうのか〉。

地獄絵のようなすさまじい場面が続々と登場するが、パンデミックの中で懸命に患者を救おうと努力する医師たちの姿には感銘を受けた。ご一読をお薦めしたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント (2)
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