先日、こんなニュースが発信され、田中利典師もご自身のFacebookで紹介されていた。TOPPANのニュースリリースによると、
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜。コロナ渦中でStay Home中の2020.3.30 に撮影した
TOPPAN、世界文化遺産 金峯山寺の秘仏を超高解像度16KでVR化
金峯山寺の国宝「蔵王堂」と重要文化財「蔵王権現立像」を自由に鑑賞できるVRコンテンツで没入感のあるデジタル文化体験を提供
TOPPANホールディングス株式会社のグループ会社であるTOPPAN株式会社(本社:東京都文京区、代表取締役社長:齊藤 昌典、以下 TOPPAN)は、金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺(所在地:奈良県吉野郡、以下 金峯山寺(きんぷせんじ))の協力のもと、本堂である国宝「蔵王堂(ざおうどう)」と秘仏本尊である重要文化財「金剛蔵王大権現立像(以下 蔵王権現立像(ざおうごんげんりゅうぞう)」をデジタルアーカイブし、その魅力を伝えるVR作品『金峯山寺』を製作しました。
本作品はTOPPAN小石川本社ビル地下1階の、「デジタル文化財ミュージアム KOISHIKAWA XROSS®(コイシカワ クロス)」のVR THEATERで公開します。なお本作品は、10月5日(土)より週末限定で一般公開を行います。
全編は約50分で、今日(2024.10.5)から、土日および土日に続く祝日に「KOISHIKAWA XROSS」で公開されるが、ダイジェスト版の〈VR作品『金峯山寺』紹介映像〉は、以下の通りである。これを見るだけでも、VR作品の素晴らしさが実感できることだろう。
さて、今日の「田中利典師曰く」は、「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」(師のブログ 2016.10.30 付)。これは中国天台の祖・天台大師智顗(ちぎ)の言葉で、〈既成概念に固執して、社会実践の工夫を怠ってはならない〉という意味である。師は「金峯山時報」平成13年(2001年)11月号の「蔵王清風」欄にこのエッセイを寄稿された。
執筆当時、師は46歳という若さだった。この年に宗務総長に就任されたばかりで、かなり肩に力の入った文章である。では、以下に全文を紹介する。
「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」ー田中利典著述集281030
昨日からですが,過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。今日のは、ちょうど15年前、金峯山寺の宗務総長に就任した年に書いた、とても青い文章です。青いなあ…。
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「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」
ちょっと難しい聖句を紹介する。「豈に旧を守りて、化道を壅べけんや」。中国天台の祖・天台大師智顗(ちぎ)の言である。意味は、既成概念に固執して、社会実践の工夫をおこたってはならない、というようなことであるが、人間というものは元来が頑固で、しかも保守的・保身的気質を持っており、一度やりだしたことはなかなか変えようとしない。
昨日やったことは今日も出来ると思っている。しかしそれは大間違いなのだと、1400年も昔の天台大師の言葉が、それを教えている。とりわけ21世紀が始まって、ご承知のように、テロ多発事件、アフガン戦争など、世界の情勢は大激変する中、日本社会もその渦中にあり、それら様々な変化に応じた我々の生き方もまた、緊迫感を持って問われ直す時代を迎えているのである。教化を待つ衆生の変化に対応した、教化の方法が行われなければならない。
管長猊下特命を以てこの4月に宗務の統括に当たる総長職を担当して半年になるが、なかなか変革の時を迎えられないでいる。宗内の体制が整わないこともあるが、危機認識が欠如しているのが一番の原因ではないかと思っている。
アメリカの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、宗教には「権威主義的宗教」と「人間主義的宗教」の二通りあるとする。前者は人間を超越した権威に対する屈伏を本質的要素とし、後者は人間を中心とし、その力を十分に展開することによって自己実現をはかる。そこでは神は、超人間的な力ではなく人間自身の力の象徴である…と説いているが、ここに筆者は仏教の可能性を見るのである。
権威主義的宗教とは正に唯一絶対の神を頂く、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教宗教であろう。これに対して、仏教は絶対神を立てず、人間が有する仏性を前提として修行が展開される。人間が覚って仏陀となる教えが仏教なのである。人間にとって宗教は不可欠のものと筆者は思っているが、宗教の有り様が二通りに分けられるとするフロムの説に大変興味をもつのである。
閑話休題。本論に戻そう。ついこの前まで世界は安定していると思っていた。それもつかの間、権威主義的宗教同士のぶつかり合いによって、大きく揺るぎ出している。筆者では予見の付かない大激動が必ず来るだろう。その危機感を知るところからしか、激動に対応できる生活は生まれないのである。
しかしながら仏教徒にとって最も大事なことは実は別にある。世の中がどうかわろうと、自らを灯火とし、法を灯火としつつ、我が人生苦の克服を第一義とするのが、仏教徒のあるべき生き方なのである。
世界の混乱は、宗教とはなんぞや、ということを突き詰めて問いかけている。ただ手を合わせていたらよい、というようなことでは説得力を持てない時代なのだ。そういう意味合いからこそ、人間主義的宗教が必要とされていると堂々というべき認識がいると思っている。
自分の仏性を磨き、人々の仏性を認め合うーそういう宗教活動によってしか、世界の平和はもたらされない。そして修験道にはそれがあると意識するところに、激動の時代に耐えうる教化活動が生まれるのではなかろうか。そういう想いが筆者を突き動かすのである。
ー「金峯山時報平成13年11月号所収、蔵王清風」より
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本文でも書いているとおり、えらい意気込みであるが、この意気込みのまま、14年の総長生活を駆け抜けたのは事実である。成果があったかどうか、「自分で言うな!」と、常から人に戒められるので、ここでは触れないでおこう。
ま、まだまだ私の人生は終わったわけではないのだし、還暦をすぎて、新たに生き直している今は、なおまだ「人生を語らず」でありたいと思う。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜。コロナ渦中でStay Home中の2020.3.30 に撮影した
TOPPAN、世界文化遺産 金峯山寺の秘仏を超高解像度16KでVR化
金峯山寺の国宝「蔵王堂」と重要文化財「蔵王権現立像」を自由に鑑賞できるVRコンテンツで没入感のあるデジタル文化体験を提供
TOPPANホールディングス株式会社のグループ会社であるTOPPAN株式会社(本社:東京都文京区、代表取締役社長:齊藤 昌典、以下 TOPPAN)は、金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺(所在地:奈良県吉野郡、以下 金峯山寺(きんぷせんじ))の協力のもと、本堂である国宝「蔵王堂(ざおうどう)」と秘仏本尊である重要文化財「金剛蔵王大権現立像(以下 蔵王権現立像(ざおうごんげんりゅうぞう)」をデジタルアーカイブし、その魅力を伝えるVR作品『金峯山寺』を製作しました。
本作品はTOPPAN小石川本社ビル地下1階の、「デジタル文化財ミュージアム KOISHIKAWA XROSS®(コイシカワ クロス)」のVR THEATERで公開します。なお本作品は、10月5日(土)より週末限定で一般公開を行います。
全編は約50分で、今日(2024.10.5)から、土日および土日に続く祝日に「KOISHIKAWA XROSS」で公開されるが、ダイジェスト版の〈VR作品『金峯山寺』紹介映像〉は、以下の通りである。これを見るだけでも、VR作品の素晴らしさが実感できることだろう。
さて、今日の「田中利典師曰く」は、「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」(師のブログ 2016.10.30 付)。これは中国天台の祖・天台大師智顗(ちぎ)の言葉で、〈既成概念に固執して、社会実践の工夫を怠ってはならない〉という意味である。師は「金峯山時報」平成13年(2001年)11月号の「蔵王清風」欄にこのエッセイを寄稿された。
執筆当時、師は46歳という若さだった。この年に宗務総長に就任されたばかりで、かなり肩に力の入った文章である。では、以下に全文を紹介する。
「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」ー田中利典著述集281030
昨日からですが,過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。今日のは、ちょうど15年前、金峯山寺の宗務総長に就任した年に書いた、とても青い文章です。青いなあ…。
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「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」
ちょっと難しい聖句を紹介する。「豈に旧を守りて、化道を壅べけんや」。中国天台の祖・天台大師智顗(ちぎ)の言である。意味は、既成概念に固執して、社会実践の工夫をおこたってはならない、というようなことであるが、人間というものは元来が頑固で、しかも保守的・保身的気質を持っており、一度やりだしたことはなかなか変えようとしない。
昨日やったことは今日も出来ると思っている。しかしそれは大間違いなのだと、1400年も昔の天台大師の言葉が、それを教えている。とりわけ21世紀が始まって、ご承知のように、テロ多発事件、アフガン戦争など、世界の情勢は大激変する中、日本社会もその渦中にあり、それら様々な変化に応じた我々の生き方もまた、緊迫感を持って問われ直す時代を迎えているのである。教化を待つ衆生の変化に対応した、教化の方法が行われなければならない。
管長猊下特命を以てこの4月に宗務の統括に当たる総長職を担当して半年になるが、なかなか変革の時を迎えられないでいる。宗内の体制が整わないこともあるが、危機認識が欠如しているのが一番の原因ではないかと思っている。
アメリカの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、宗教には「権威主義的宗教」と「人間主義的宗教」の二通りあるとする。前者は人間を超越した権威に対する屈伏を本質的要素とし、後者は人間を中心とし、その力を十分に展開することによって自己実現をはかる。そこでは神は、超人間的な力ではなく人間自身の力の象徴である…と説いているが、ここに筆者は仏教の可能性を見るのである。
権威主義的宗教とは正に唯一絶対の神を頂く、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教宗教であろう。これに対して、仏教は絶対神を立てず、人間が有する仏性を前提として修行が展開される。人間が覚って仏陀となる教えが仏教なのである。人間にとって宗教は不可欠のものと筆者は思っているが、宗教の有り様が二通りに分けられるとするフロムの説に大変興味をもつのである。
閑話休題。本論に戻そう。ついこの前まで世界は安定していると思っていた。それもつかの間、権威主義的宗教同士のぶつかり合いによって、大きく揺るぎ出している。筆者では予見の付かない大激動が必ず来るだろう。その危機感を知るところからしか、激動に対応できる生活は生まれないのである。
しかしながら仏教徒にとって最も大事なことは実は別にある。世の中がどうかわろうと、自らを灯火とし、法を灯火としつつ、我が人生苦の克服を第一義とするのが、仏教徒のあるべき生き方なのである。
世界の混乱は、宗教とはなんぞや、ということを突き詰めて問いかけている。ただ手を合わせていたらよい、というようなことでは説得力を持てない時代なのだ。そういう意味合いからこそ、人間主義的宗教が必要とされていると堂々というべき認識がいると思っている。
自分の仏性を磨き、人々の仏性を認め合うーそういう宗教活動によってしか、世界の平和はもたらされない。そして修験道にはそれがあると意識するところに、激動の時代に耐えうる教化活動が生まれるのではなかろうか。そういう想いが筆者を突き動かすのである。
ー「金峯山時報平成13年11月号所収、蔵王清風」より
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本文でも書いているとおり、えらい意気込みであるが、この意気込みのまま、14年の総長生活を駆け抜けたのは事実である。成果があったかどうか、「自分で言うな!」と、常から人に戒められるので、ここでは触れないでおこう。
ま、まだまだ私の人生は終わったわけではないのだし、還暦をすぎて、新たに生き直している今は、なおまだ「人生を語らず」でありたいと思う。
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