エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

 北青木に善龍寺を訪う

2014-01-27 | 日々の生活

  

 昨年、西会津町にギフチョウの保護を提言したことがあった。その件で、ギフチョウの保護に関心のあるHさんから電話をもらった。つい最近も、町にその件で、参考になりそうな資料を送ったところだった。
 Hさんには沢山の資料を郵送する約束だったが、午後、3㎞くらいだろうか、運動不足解消も兼ねて歩いて届けることにした。

 かつて40年も前に半年住んでいた地域だ。バイパスを外れると、懐かしい街並みが現れた。善龍寺はかつて住まいしたところから目と鼻の先で、懐かしい。

      高台の境内からお城が望める

 生憎、Hさんは留守だった。裏の善龍寺へまわり、久々に「なよ竹の碑」に参った。
  会津藩家老・西郷頼母の妻千重子の辞世の碑が建っていた。
  「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け

 


ついでに、裏の雪の山道を辿り、何度か訪れていた西郷頼母のお墓に参った。
 驚くほど小さい墓、その脇の解説文には、
「 ・・・生前から保科家歴代の墓所に用意されていたが、祖先の墓石のいずれよりも小さくその人柄が偲ばれる・・・」とあった。

     

 西郷頼母は藩主・松平容保の京都守護職就任をやめるよう強く進言し、又、戊辰戦争では和議恭順を主張した人物でもある。
慶応4年(1868年)8月23日西軍が若松城下についに侵入、西郷頼母は城中にあったが、城外の家老屋敷に残された頼母の母律子、妻千重子など家族9人と一族12人は戦いの足手まといとならないよう邸内で自刃して果てた。辛い話だ。

 竜宮城のような善龍寺の山門からお城を望んだ。過ぎ去りし日々が蘇った。
 アセビに囲まれ、  切ない戊辰戦争の悲劇を語る歌だ。
 
 穏やかな日だったが、夕方は冷える。街を帰る道、磐梯山が真っ赤に聳えていた。
 頼母たちが、どんな心境で夕焼けの磐梯山を眺めたことか、思い巡らせた。