エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

志を得ざれば再び此地を踏まず

2016-04-22 | 文芸

  野口博士に精神力学ぶ  
          
昨日、猪苗代の野口記念館の隣の至誠館で「いなわしろフォーラム」(福島民報社主催)があった。

「至誠館」が建てられたことは知らなかった。

第1部の記念講演会を聴いた。野口英世記念会の竹田美文副理事長が「ドクター野口に学ぶ精神力」と題して話した。彼もまた細菌学者だ。
第2部は往時の猪苗代町を扱ったニュース映画上映会があったが、途中退席した。
気になるヒメシロチョウの様子を見に行くためだった。

講演は、彼の床柱に彫り残した「志を得ざれば再び此の地を踏まず」で始まった。

 

 年代別に彼の足跡をたどった。

 1歳半の時、いろりに落ちて左手コブシに大火傷を負う。 15歳の歳に左手の手術を受ける(会津会陽医院の渡部鼎医師)。

 20歳で医術開業後期試験に合格。21歳のとき、北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務(英世と改名)。

 その後の研究活動を、同世代の医学者パスツール、コッホ、北里柴三郎や志賀潔などの業績とともに辿った。

 そして講演では、この強靱な精神力の源を3つ上げられたが、十分理解できなかった。
 ・14歳の時の手の手術 、・背が153cmと低かったことからの劣等感  ・大隈重信との親交 

  講演の中に、彼の不自由な手の写真を見た。手術中の不自由な親指が写っていた

 強烈だった。この写真に、彼の辛かった忍耐の生涯が思い出された。

 これまで見ていた彼の写る写真は、どれも左手を隠していた。写真を見つめながら、込み上げるものがあった。

 野口英世の少年時代、青年時代、その後の不屈の生涯は、どれだけ辛い人生であったことか。

 英世はいつも忍耐を心に秘めながら歩んだ生涯であったと思う。

 何年も前、渡辺淳一著の「遠き落日」を読み、その映画化もあった。その赤裸々な人間野口英世は、知りたくない一面だった記憶がある。

 そレらについても、彼のこの忍耐、精神力を思うと、何ら感じることはなかった。

 会場を出ると、2階廊下に「忍耐」の書が掲げられていた。

 野口英世は忍耐の人だ。

  
   【野口英世の生涯・年表      http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2013091900027/  】

  【野口英世 この母ありて この息子あり  http://www.cheers.com.au/entertainment/dancingman/901/ 】

   【人物写真紀行 野口英世  http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/noguchi/

野口清作の生家