最近、生きていることを強く感じた瞬間があった。
籐i椅子に揺られながら、ぼんやり庭を眺めていた。
今盛りの紫色のシオンにヒョウモンチョウが翅を休めている。
キンモクセイが小春日に美しく輝いている。
心安らぐ思いに、いま自分が生きている幸せを思った。
ウラギンスジヒョウモン ツマグロヒョウモン♀
もう20年にもなる。もう駄目かと諦めた日々が浮かんできた。
これからの残された日々を、「心身永く閑かなり」つまり「心身永閑」を旨として送ろうと思うに至った。
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夜半に目覚め、寝付けずに枕元の兼好に目を通す。
しばらく日々の生き方が頭からは離れなくなっていた。
徒然草七十五段に
「未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言いつべけれ。」とある。
中野孝次は 縁を離れて身を閑かに を「心身永閑」と表現し、こうした生き方が兼好の、徒然草の理想としたと述べている。
そんな折りに、文庫本「徒然草を読む」(上田三四二著)を手に取った。いつか読んだアンダーラインを再読した。
彼にとって、徒然草は「先途なき生」であり、兼好の唱道する生き方は「ただいまの一念」と述べている。
また、存命の喜びを純粋時間の筒の内に「心身永閑」の無事として味得する事を意味している。
兼好の隠遁は、その「心身永閑」のための手段に他ならなかった。と書いている。
期せずして「心身永閑」の二人の表現を見た。