雲一つない青空から容赦なく照りつける真夏の太陽のもと、庭にいて、正午の時報と共に黙とうした。
戦後生まれの自分が、例年繰り返すささやかな所作だ。そして、これしかできない後ろめたさを感じている。
今日、62回目の終戦記念日。日本の平和のすべてが戦没者はじめ、戦争を体験された方々に負っていることをあらためて確認し、しばし戦争の切なさ、辛さ、悲惨さに思いを巡らせた。
【戦争について連想するもの】
・聞けわだつみの声 ・上田市にある無言館 ・中国残留孤児
・海ゆかば ・平和 ・・・・・
新聞の読者欄に、数々の戦争体験を見る。何と重々しい、あってはならない悲し事実が辛い。
今の平和が、涙がでるほどありがたい。
以下は、地方新聞の記事
(1)『福島民報新聞のコラム「あぶくま抄」(8/14付)』
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〈御(お)母上様、いよいよこれが最後で御座(ござ)います〉旧日本陸軍の宇佐美輝夫少尉が死の直前、本県に住む母親へあてた手紙の書き出しだ。昭和20年7月1日、少年飛行兵だった宇佐美少尉は特攻隊員として都城東基地(宮崎県)から飛び立ち、沖縄沖で散った。
太平洋戦争末期、日本軍は戦局を打開するため、飛行機や船艇に乗って体当たりする特別攻撃部隊(特攻隊)を編成する。基地を離れれば2度と戻れない必死の作戦だった。10代後半から20代の若者が要員となり、十分な訓練も受けず出撃していった。
手紙は、終戦記念日に合わせて発刊される「いつまでも、いつまでもお元気で―特攻隊員たちが遺した最後の言葉」(知覧特攻平和会館編)の巻頭に掲載されている。〈国家の安泰の礎として〉〈一家の名誉にかけても〉の決意と同時に〈御優しい、日本一の御母様。…将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです〉〈山を眺めると福島の景が思い出されます〉など、家族や故郷への思いがつづられている。
〈短いようで長い19年間でした〉当時、宇佐美少尉は18歳。現在、甲子園で熱戦を繰り広げている高校球児と変わらない年ごろだ。同書には、飛行服姿の幼顔も収められている。もし戦争がなければ、終戦が数カ月早ければ…。〈輝夫は本当は35歳以上は必ず生きるそうです〉
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(2)『日々の新聞』)第106号(8/1付)
「私にとっての8月15日」
ノンフィクションで一番重要なのは「動機づけ」だ。なぜそれを追うのか、その意味は…。それが自分にとって大きければ大きいほど、より熱くなれる。吉田紗知さんの『8月15日の特攻隊員』を読んだあとに感じたのは、読み手めがけてまっすぐに向かってくる熱だった。
戦争が終わった日、それも玉音放送が流れたあとに特攻として飛び立った「大木正夫」。その、祖母の叔父だという1人の人間の運命を思い、手掛かりを調べ始める。そこには時間の壁が存在し、戦争という得体の知れない山もあった。昭和54年生まれという自分の世代ではとうてい理解できない、当時の若者たちの思い。それを知りたいと思った。
61年前に21歳で死んでしまった血縁の男性を知るには、同じ時代に生きた人の話を聞くのが一番早かった。それは、身近にいた祖父母であり、親戚 や近所のおじいさん、おばあさんであることが、いまになってやっとわかった。でも祖父も、戦争のことを話したがっていたおじいさんも、もういない。「あのとき聞いておけば」という思いが募り、後悔した。今回の作業を通 して、生き証人の話がいかに大事か、を痛感したのだった。
「散る桜残る桜も散る桜」
戦後生まれの、戦争を知らない子どもたちにとって、この句を本当に理解することはできない。しかし、吉田さんは「散る桜」も「残る桜」もみな同じでないことを知った。戦争という異常事態の中で、それぞれが違う思いを持ち、多様な考えを持っていたことを。それを、表面 には出せず、奥底にしまい込んでいたんだと。
「もし戦争がなかったら、親戚の構成も変わっていたでしょうね。それが運命って言うのかも知れないけれど。身近なところから調べていくのが原点です。それはだれのためでもない、自分のため。だから、みんな、もっともっとおじいちゃん、おばあちゃんと話してほしいんです。そうすれば、少しは世の中が変わるかもしれない」
イデオロギーも気負いもない真っ白い心のキャンバスに描かれた戦争。それが『8月15日の特攻隊員』だった。
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戦後生まれの自分が、例年繰り返すささやかな所作だ。そして、これしかできない後ろめたさを感じている。
今日、62回目の終戦記念日。日本の平和のすべてが戦没者はじめ、戦争を体験された方々に負っていることをあらためて確認し、しばし戦争の切なさ、辛さ、悲惨さに思いを巡らせた。
【戦争について連想するもの】
・聞けわだつみの声 ・上田市にある無言館 ・中国残留孤児
・海ゆかば ・平和 ・・・・・
新聞の読者欄に、数々の戦争体験を見る。何と重々しい、あってはならない悲し事実が辛い。
今の平和が、涙がでるほどありがたい。
以下は、地方新聞の記事
(1)『福島民報新聞のコラム「あぶくま抄」(8/14付)』
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〈御(お)母上様、いよいよこれが最後で御座(ござ)います〉旧日本陸軍の宇佐美輝夫少尉が死の直前、本県に住む母親へあてた手紙の書き出しだ。昭和20年7月1日、少年飛行兵だった宇佐美少尉は特攻隊員として都城東基地(宮崎県)から飛び立ち、沖縄沖で散った。
太平洋戦争末期、日本軍は戦局を打開するため、飛行機や船艇に乗って体当たりする特別攻撃部隊(特攻隊)を編成する。基地を離れれば2度と戻れない必死の作戦だった。10代後半から20代の若者が要員となり、十分な訓練も受けず出撃していった。
手紙は、終戦記念日に合わせて発刊される「いつまでも、いつまでもお元気で―特攻隊員たちが遺した最後の言葉」(知覧特攻平和会館編)の巻頭に掲載されている。〈国家の安泰の礎として〉〈一家の名誉にかけても〉の決意と同時に〈御優しい、日本一の御母様。…将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです〉〈山を眺めると福島の景が思い出されます〉など、家族や故郷への思いがつづられている。
〈短いようで長い19年間でした〉当時、宇佐美少尉は18歳。現在、甲子園で熱戦を繰り広げている高校球児と変わらない年ごろだ。同書には、飛行服姿の幼顔も収められている。もし戦争がなければ、終戦が数カ月早ければ…。〈輝夫は本当は35歳以上は必ず生きるそうです〉
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(2)『日々の新聞』)第106号(8/1付)
「私にとっての8月15日」
ノンフィクションで一番重要なのは「動機づけ」だ。なぜそれを追うのか、その意味は…。それが自分にとって大きければ大きいほど、より熱くなれる。吉田紗知さんの『8月15日の特攻隊員』を読んだあとに感じたのは、読み手めがけてまっすぐに向かってくる熱だった。
戦争が終わった日、それも玉音放送が流れたあとに特攻として飛び立った「大木正夫」。その、祖母の叔父だという1人の人間の運命を思い、手掛かりを調べ始める。そこには時間の壁が存在し、戦争という得体の知れない山もあった。昭和54年生まれという自分の世代ではとうてい理解できない、当時の若者たちの思い。それを知りたいと思った。
61年前に21歳で死んでしまった血縁の男性を知るには、同じ時代に生きた人の話を聞くのが一番早かった。それは、身近にいた祖父母であり、親戚 や近所のおじいさん、おばあさんであることが、いまになってやっとわかった。でも祖父も、戦争のことを話したがっていたおじいさんも、もういない。「あのとき聞いておけば」という思いが募り、後悔した。今回の作業を通 して、生き証人の話がいかに大事か、を痛感したのだった。
「散る桜残る桜も散る桜」
戦後生まれの、戦争を知らない子どもたちにとって、この句を本当に理解することはできない。しかし、吉田さんは「散る桜」も「残る桜」もみな同じでないことを知った。戦争という異常事態の中で、それぞれが違う思いを持ち、多様な考えを持っていたことを。それを、表面 には出せず、奥底にしまい込んでいたんだと。
「もし戦争がなかったら、親戚の構成も変わっていたでしょうね。それが運命って言うのかも知れないけれど。身近なところから調べていくのが原点です。それはだれのためでもない、自分のため。だから、みんな、もっともっとおじいちゃん、おばあちゃんと話してほしいんです。そうすれば、少しは世の中が変わるかもしれない」
イデオロギーも気負いもない真っ白い心のキャンバスに描かれた戦争。それが『8月15日の特攻隊員』だった。
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